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自由意志とは何か(2):ホムンクルスはいない、たぶん(知識は永遠の輝き)



今回はdiamonds8888xさんのブログ『知識は永遠の輝き』からご寄稿いただきました。


自由意志とは何か(2):ホムンクルスはいない、たぶん(知識は永遠の輝き)


前回(2015/05/10)からの続き

「自由意志とは何か(1):自分では見えない自分の顔は存在しないのか?」2015年5月10日『知識は永遠の輝き』

https://blog.goo.ne.jp/diamonds8888x/e/f68849b6caff6e57f4261d2488d6eb96


 多くの人の自由意志論を読んでいると、「脳内に自由意志という名の小人がいて、この小人が動作の全プロセスを決定している」というイメージがあるように思えます。この小人は全プロセスを完全に自覚しながら理性的に意志決定を行い、その決定は小人とは別のものである無意識からも感覚入力からも自由である、というイメージです。文字通り小人を想定したのでは、過去に否定された前成説における精子の中のホムンクルス*1 と同じだとして否定する人も多いでしょうが、「特定の神経細胞群が自由意志を担っているはずだ」という論理とか、リベットの「精神場説」とかには、「脳の中のどこかに自由意志の機能を担う部分がある」という仮説を「脳全体が自由意志の機能を担う」という仮説に、最初から優先する先入観が感じられます。デネットが批判したデカルトの劇場(Cartesian Theater)*2 ですね。


*1:「前成説」『ウィキペディア』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%88%90%E8%AA%AC


*2:「カルテジアン劇場」『ウィキペディア』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%8A%87%E5%A0%B4


 もちろんどんな先入観から提出されたのかは仮説の正しさとは無関係ですが、もし正しかったとしてもその場合は、ホムンクルスや特定の神経細胞群や精神場がその全体で自由意志の機能を担っていることになります。そうではなくて例えばホムンクルスの頭部だけが担い手だとしたら、いや、その頭部の中の脳だけが・・・どこかで終点があるはずですね。そしてその終点の真の担い手は必ずその全体で自由意志の機能を担っているはずです。だったら「脳全体が自由意志の機能を担う」という仮説の方をまず検討すべきではないのでしょうか? 脳の各部分が役割分担して自由意志というひとつの現象を起こしている。そして役割分担の比率はそれぞれ違うだろう、と考えるのが妥当というものでしょう。むろん脳の中にはほとんど自由意志機能に関与しない部分もあるかも知れませんが、多少とも自由意志機能に関与する部分の集合を考えれば、その集合の各部分が協調しながら全体として自由意志機能を担っている、ということにならざるを得ません。


 次に、意思決定の自覚を自由意志の必要条件とする定義についてです。まず担い手が何であれ、自由意志による決定という現象は脳神経系での有限時間内での電気信号パルス現象に対応すると考えてよいでしょう[※1]。さらにこの現象には、意志の発生、意志の自覚、意志の遂行、という現象が含まれると考えられ、この3つの現象は時間的にずれて起きる可能性が考えられます。実際、意志の発生意志の遂行に先行するはずです。というよりも、意志の遂行(リベットの実験では筋肉の収縮)に必ず先立つ神経電位現象のどれかが意志の発生に当たると推定するわけです。リベットの実験では準備電位がそれに当たります。もちろん準備電位より前に未観測の意志の発生現象が起きているかもしれません。いずれにせよリベットの実験では、意志の発生意志の自覚より約200ms以上先行することがわかったことになります。しかしまだ発生しないものが自覚されるはずもないのですから、発生が自覚に先行すること自体は当然でしょう。そして、意志の発生意志の自覚意志の遂行をまとめて自由意志による決定という現象だと定義すれば、リベットの実験の意味は「自由意志の否定」ではなく、「自由意志(という現象)の構造解明」になります。リベットの言葉では「意識を伴う感覚経験を生み出すには、適切な脳活動が最低でも500ミリ秒間持続」する必要がある(タイム-オン理論)、ということですが、つまりこの500ミリ秒間持続する現象こそ「意識を伴う感覚経験」に他ならないということになるのだと思います。


 ここで意志の発生は自由意志(を担う何者か)が自覚して発生させたものではなく、無意識から生まれたものです。それゆえ自由意志による選択とは幻であり、人は感覚入力やそれらの無意識下での反応物に自動的に反応しているだけだ、という論理もあります。ただ、この論理の前提は前提である「意志の発生は無意識から生まれる」という命題は、リベットの実験を待つまでもなく事実でしょう[※2]。人の意志の中身(意図と呼べるだろう)が何で決まるかと言えば、それは無意識から生じる様々の欲求で決まるのであり、いつどんな欲求が生じるかは、意識が決めているのではありません。けれどもそれは「自分の欲求」であり、それを他から妨げられずに遂行しようとすることを「自分の自由意志による決定」と呼んでいたのではなかったのでしょうか[※3]。


 さて「自由意志とは何か?」という問題だけなら象牙の塔の内外の一部のオタクの問題だけ(^_^)のようにも見えますが、Ref-2の心理実験を読むとそうも言っていられないようです。少なくとも西洋文化の中の多くの人々は、自由意志と責任という2つのことを強く結び付けているようです。それもたぶん無意識のうちに


 

※1) いわゆる二元論の中にはこの仮定を否定するものも多い。

※2) 訂正(2018/11/24)

※3)【追加(2018/11/27)】 橋本大也氏によるRef-4の紹介*3 によればRef-4の著者は「私たちはすべての支配権を手中にしているわけではなく、いつも意識を働かせているわけでもないことをあえて喜ぶべきだ。さらに無意識の生き生きした様を楽しみ、それを意識の持つ規律や信頼性と一体化させるべきだ。人生は意識していないときのほうがずっと楽しい。」と述べている。これは無意識という良きパートナーとうまくやっていこうよという提案であり、方向性は私と同じだ。私はむしろ、無意識も自分であり不都合ならば自分を変えようよ、という考えだが、どちらも結果は同じですね。


*3:「ユーザーイリュージョン―意識という幻想」2004年08月03日『情報考学 Passion For The Future』

http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html


 

Ref-1) 日経サイエンス「自由意思が存在する理由」2015年06月

http://www.nikkei-science.com/201506_086.html


Ref-2) 日経サイエンス「自由意思なき世界」2014年10月

http://www.nikkei-science.com/201410_084.html


Ref-3) デイヴィッド・イーグルマン;大田直子(訳)『意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)』早川書房 (2012/04/06)

Ref-4) トール ノーレットランダーシュ〈Norretranders, Tor>;柴田裕之(翻訳)『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』紀伊國屋書店(2002/09)

Ref-5) ベンジャミン・リベット;下條信輔(訳)『マインド・タイム 脳と意識の時間』岩波書店(2005/07/28)


 

執筆: この記事はdiamonds8888xさんのブログ『知識は永遠の輝き』からご寄稿いただきました。


寄稿いただいた記事は2018年11月28日時点のものです。


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