日本の秋田大学で行われた研究によって、ツキノワグマに襲われた際に地面にうつ伏せになって頭や首を守る「防御姿勢」を取るだけで、重症化リスクを大幅に下げられる可能性が示されました。
研究チームが分析した70件の被害のうち、実際にこの「丸まる防御」をとれた7人は誰ひとり重傷を負いませんでしたが、姿勢をとれなかった残りの人たちからは骨折や切断を伴う重症例が続出しました。
ツキノワグマは防衛目的で人を攻撃するとき、たいていは最初の一撃だけ加えてすぐ離れることが多いとされており、急所を隠して数秒間しのげるかどうかが、重症化を防ぐポイントになる――それを裏付けるデータが初めて得られたわけです。
研究内容の詳細は2025年7月に『臨床整形外科』にて発表される予定です。
目次
- “たまたま助かった”を理論に変える挑戦
- クマの一撃をかわす最終防衛、“うつ伏せシールド”の科学
- 知っているだけで大怪我を防げる
“たまたま助かった”を理論に変える挑戦

近年、日本各地でクマによる人身被害が増加傾向にあります。
環境省のまとめによれば、2023年度(令和5年度)に全国で発生したクマ(ツキノワグマおよびヒグマ)による人身被害は198件(被害者219人、うち死亡6人)と、統計を取り始めた2006年以降で最多となりました。
被害は東北地方で特に顕著で、秋田県では被害者が70人と全国最多を記録しています。
秋田県では毎年クマによる遭遇事故が起きていますが、2023年は「10年分の被害が1年に集まった異常な年」とも言われるほどの深刻な状況でした。
クマに出会った際の対処法としては前述のように「うつ伏せの防御姿勢で急所を守る」ことが以前から環境省や自治体により推奨されてきました。
しかし、その効果が本当にあるのか、科学的な検証はこれまで行われていませんでした。
言わば「経験則」として勧められてきた策ですが、実際のデータによる裏付けがなかったのです。
クマを見かけたときの大前提
防御姿勢の話題に入る前に、「クマを見かけたときにはどう行動すべきか」という基本を押さえておきましょう。まず当然ですが「出会わない・襲われない」が原則であり、出没情報を確認し複数人で行動しながら鈴やラジオで存在を知らせるなど予防策を徹底することが最優先です。万一目の前にクマが現れても走らず騒がず、ザックを背負ったまま視線を外さずにゆっくり後退し、驚かせる大声や急な動きを控えて距離を取ります。クマは背中を見せて逃げる対象を追いかける習性があり、急に背を向けて走ると攻撃される可能性が高まります。クマが威嚇突進を見せても多くは途中で止まるため落ち着いて後退を続け、スプレーがあれば風下を確認して噴射の準備をします。以上が「まずクマを見かけたとき」の大前提です。
こうした中、秋田大学の研究者たちはこの疑問に挑みました。
研究のきっかけは「実際の救急医療の現場で、うつ伏せによる防御姿勢をとったことで重症化を免れた事例を経験」を見て、その有効性を実データで検証しようと考えたことでした。
クマの一撃をかわす最終防衛、“うつ伏せシールド”の科学

研究グループは秋田県内で令和5年度(2023年4月~2024年3月)にクマに遭遇して負傷し、県内の医療機関を受診した全ての人(70人)を対象にデータを解析しました。
秋田県が保有する「クマによる人身事故情報」と、各医療機関のカルテ情報を照合し、被害者がどのような状況でどんな対応を取り、結果としてどの部位にどれほどのケガを負ったのかを詳細に調べたのです。
その結果、この70人のうち、ケガの程度が「重症」に分類されたのは23人(約33%)でした。
ここで言う「重症」とは、骨折が複数本に及ぶ多発外傷、全身麻酔が必要なほど深い傷、指や手足の切断を伴う負傷などの深刻なケースを指します。
実際、この中にはクマに噛まれたり引っかかれたりして指や四肢を失った例や、手術を要する深い傷を負った例も含まれていました。
一方で、被害者70人のうちクマに襲われた際にとっさに「うつ伏せの防御姿勢」を取ることができた人は7人(全体の10%)に留まりました。
注目すべきことに、この7人には重症者が一人もいないという明確な差が確認された点です。
防御姿勢を取れなかった残り63人では23人が重症になったのに対し、防御姿勢を取れた7人では重症者ゼロだったということです。
言い換えれば、防御姿勢を取れた場合と取れなかった場合で、重症を負うリスクに明確な開きがあったことになります。
さらに分析から、クマ遭遇事故のおよそ6割(約60%)は「里地」や「居住地」など人間の生活圏内、つまり家の近くや農作業場など身近な場所で発生していたことも分かりました。
クマ被害というと山奥で登山者が襲われるイメージがあるかもしれません。
しかし実際には、庭先での作業や近所の畑仕事など、日常生活の中でもクマと鉢合わせする可能性があります。
2023年の秋田県ではドングリなどの餌不足や個体数増加などが背景に指摘されており、人里への出没が相次いだとされています。
「普通に生活していてもクマと鉢合わせする可能性がある」という現実は、被害予防策を地域社会で徹底する必要性を物語っています。
知っているだけで大怪我を防げる

今回の研究は、実際の医療データに基づいて「クマ遭遇時の防御姿勢は重症化防止に有効かもしれない」ことを示した貴重な報告です。
従来からクマに襲われそうになった際の対策として「うつ伏せになって頭や首、腹部を守る」ことが推奨されてきましたが、研究によってその効果に数字の裏付けを与えられたわけです。
本研究の意義は、従来言われていた防御姿勢の有効性を科学的に裏付けた点にあります。
データで示されたことで、対策として呼びかけることができるようになります。
これは、日本のみならず世界的にも貴重な知見といえるでしょう。
防御姿勢が有効な理由としては、やはり致命傷になりやすい急所(顔・頭・首・腹部)を守れる点が大きいと考えられます。
ツキノワグマの場合、多くは人間に襲いかかっても一度攻撃した後は深追いせず去っていく傾向があります。
実際、秋田県のデータでもクマ被害者の死亡例は幸い確認されていませんでした(全国では2023年度に6人の死亡あり)。
短時間の攻撃で済む場合、その一瞬を適切に対応できるかが重症化を防ぐポイントとなります。
立ったまま反撃しようとして顔や喉をやられてしまえば重症は避けられませんが、防御姿勢でうずくまれば頭部や内臓を守れます。
結果として、仮に負傷しても手足の外傷や擦り傷程度で済み、重大な後遺症を負うリスクを格段に減らせるのです。
もちろん、防御姿勢を取れば全く無傷で済む保証はありません。
実際7人のうち何人かは軽傷(例えば打撲や擦過傷程度)は負った可能性があります。
しかし重症(深刻な障害が残るような怪我)には至らなかったという事実は極めて重要です。
この「命に関わるような大怪我を避けられる可能性」こそが防御姿勢の価値と言えるでしょう。
一方で今回のデータからは、とっさに最適な防御姿勢を取れた人は全体の1割程度しかいなかったことも浮き彫りになりました。
クマに突然襲われるという極限状況では、恐怖で硬直したりパニックになったりして、頭で分かっていても身体が動かないケースも多いでしょう。
また防御姿勢そのものを知らず、逃げようとしてしまった人もいたかもしれません。
「知っているかどうか」でケガの程度が大きく変わる場面もあるということです。
最後に改めて強調しますが、ベストは「クマと遭遇しないこと」です。
山菜採りや登山の際にはクマ鈴を鳴らしながら歩く、ゴミは絶対に放置しない(食べ物目当てで人里に現れるのを防ぐ)など、日頃からクマを引き寄せない工夫をしてください。
それでも万が一クマに襲われてしまったなら、今回証明された「防御姿勢」を思い出してください。
落ち着いてうつ伏せに丸まり、頭と首を両腕でしっかりガードする——それだけで重症化を防げる可能性がグッと高まるのです。
この知識が広まり、クマ被害による不幸が少しでも減ることを願っています。
参考文献
クマによる防御姿勢は有効か? ―秋田県令和 5 年度データの解析―
https://www.akita-u.ac.jp/honbu/event/img/mix4910_01_dl.pdf
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部