現代の日本において城は地域のランドマークとして扱われているところも多く、城郭マニアや戦国時代マニア以外からも広く親しまれている存在です。
そんな城ですが、明治時代に出された廃城令により、その多くが危機的な状況を迎えました。
果たして今に残る名城はこの危機をどう乗り越えたのでしょうか?
この記事では存城と廃城で城はそれぞれどのような運命を辿ったのか、今に残る有名な城はこの危機をどう乗り越えたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、森山英一(2018)『存城と廃城 -城はいつ終わったのか-』平成28年度遺跡整備・活用研究集会報告書、pp.88-124に詳細が書かれています。
目次
- 10万円で売られた姫路城、大隈重信の説得で命脈を繋いだ彦根城
- 元藩主に譲渡された犬山城、地元住民の尽力で守り抜いた松本城
10万円で売られた姫路城、大隈重信の説得で命脈を繋いだ彦根城

江戸時代は日本全国に約300もの藩があり、城を持つことができなかった藩もあるものの、ほとんどの藩は拠点となる城を持っていました。
しかし明治政府は1871年(明治4年)に廃藩置県を行い、それに伴って各藩の持っていた城は陸軍のものになったのです。
その後1873年(明治6年)、明治政府は全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)を通達しました。
これは陸軍の持っていた城を引き続き陸軍のものとして扱う城と大蔵省(現在の財務省の前身)に移管して大蔵省で処分する城の2つに分けるようにするという命令であり、前者の城は存城処分に、後者の城は廃城処分となりました。
存城となった城は、軍事拠点としての活用や行政利用を念頭に、政府からさまざまな処遇を受けます。
城に建てられている建物の多くは、軍事施設を建てるために取り壊されました。
たとえば名古屋城(愛知県名古屋市)では二の丸御殿や櫓、門が解体され、歩兵連隊の兵舎や練兵場が建設されたのです。仙台城(宮城県仙台市)では本丸御殿が取り壊され、石材が他の営所建築に転用されました。
また国宝として知られている姫路城(兵庫県姫路市)は一旦存城となったものの競売にかけられ、23円50銭(換算方法で差があるが現在の価値で大体10万円)で落札されました。
なお購入したのは姫路の商人で姫路城の建材(瓦や釘、木材など)を転売・再利用する目的だったといいますが、サイズが大きすぎて城の瓦を一般家屋に流用することが難しく、また莫大な解体費用がかかるということもあり、購入後結局その権利を放棄しました。
その後姫路城は陸軍の手に戻り、城の敷地内には軍事施設が多く建てられたものの天守はほとんど手入れされず、そのこともあって天守の腐敗が進んできました。
その状況を見かねた軍人の中村進一郎(なかむらしんいちろう)は政府に請願し、1879年(明治12年)に姫路城は先述した名古屋城とともに保存されることが決定します。
しかし肝心の修復の工事はなかなか進まず、修復工事が本格的に始まるのは1910年(明治43年)まで待たなければならなかったのです。

彦根城(滋賀県彦根市)も姫路城と同じく一旦は存城となったものの、老朽化を理由に競売にかけられ、破却の危機にありました。
しかし大隈重信の説得により、城の保存が決まったのです。
最終的に陸軍から皇室付属地彦根御料所(こうしつふぞくちひこのごりょうしょ、皇室の直轄地)になった上で、天皇からかつての藩主の井伊直憲(いいなおのり)に下賜され、彦根城は井伊家によって管理されることになりました。
一方戊辰戦争によって被害を受けた城の中には、復旧困難と判断され廃棄された城も多かったです。
たとえば、会津若松城(福島県会津若松市)や盛岡城(岩手県盛岡市)などは戦禍で損壊したまま放置され、老朽化を理由に解体された例があります。
こうして存城となった城は軍事施設へと転換され、旧来の城郭景観は急速に変容しました。
最終的に、廃却や買い上げ、要塞化の名の下で破却が進められ、その多くは現在に残る壮麗な城の姿を失ったのです。
元藩主に譲渡された犬山城、地元住民の尽力で守り抜いた松本城

一方廃城となった城は、まず大蔵省の管轄下で詳細な調査が行われました。
大蔵省は各府県に城郭・陣屋といった建物から樹木や土木に至るまで面積を報告するよう命じたのです。
さらに城の中にある建物や樹木について「相当の代価」を調べ、提出させました。
その後これらの城は、競売にかけられたり他の施設に作り替えられたりします。
たとえば佐賀城(佐賀県佐賀市)や府内城(大分県大分市)などは城の中の建物が行政庁舎として使われました。
変わった例としては三原城(広島県三原市)があり、海軍省が提督府設置を目指し、城の一部を買収しました。
しかし最終的に鎮守府は呉に置かれることとなり、三原城は実質的に廃城のまま解体されることとなったのです。
なお三原城の城跡はその後、山陽鉄道(現在のJR西日本の前身)の駅の用地として転用されました。
さらに廃城を教育施設として再利用する動きも見られました。
学制公布後、廃城を学校の敷地に転用する動きが進み、旧陣屋や城跡に多くの学校が開校されたのです。
日出城(ひじじょう)(大分県日出町)では本丸御殿が小学校として利用され、櫓も教室に転用されました。
その中でも多かったのは、城跡を公園として整備する動きです。
たとえば高知城は本丸御殿を「懐徳館」、天守を「咸臨閣」と改称し、敷地を整備して公園化しました。
二の丸などの建物は入札で払い下げられて壊されたものの、天守と追手門は保存され、高知城は城跡公園として城郭の景観を色濃く残すことになったのです。

また現在は国宝として知られている犬山城(愛知県犬山市)も、地元の村が主導して、城の敷地を公園化することで生き延びました。
幕末以来の城郭景観を生かし、天守を公開して見物料を取り、観光地化を図ったのです。
しかし1891年(明治24年)の濃尾地震によって天守が大破すると、県は財政難を理由に自力での復旧を断念し、かつての犬山藩主である成瀬正肥(なるせまさみつ)に払い下げました。
なお城の修復が払い下げの条件として課されており、その後成瀬らによって犬山城は修復されたのです。

同じく国宝として知られている松本城(長野県松本市)の天守も競売にかけられたものの、地元の有力者が買い戻したことにより、何とか解体を免れました。
なお有力者たちは資金を集めるために一旦競売の延期を申請した上で天守を借りて博覧会を開き、そこでの利益を使って天守を買い戻したのです。
しかし明治30年代頃から天守が大きく傾くようになり、地元の有志らによって「松本天守閣天主保存会」が設立され、修理費の寄付が呼びかけられました。
その甲斐あって1903年(明治36年)より城の修理が始まり、松本城は難を逃れたのです。
一方、明石城(兵庫県明石市)では1881年(明治14年)、兵庫県が櫓を小学校建設用材として取り壊そうとしたため、500名を超える士族が籠城を示唆して抵抗する動きがありました。
これに対して県は「風致に益するものは人民の適宜に任せて保存を容認する」と方針転換、これにより2棟の櫓が保存され、城跡公園として整備される契機となったのです。
こうして廃城は、早期の建物払下げ・解体を経ながらも、土地・石垣・樹木は一部保存され、行政庁舎や学校、公園、あるいは鉄道用地へ転用されました。
地域や旧藩士の保存運動を背景に景観としての価値が再評価される例もあり、多様な運命をたどったのです。
さまざまな偶然や有力者の尽力によって解体を免れた城は今日ではランドマークとして地域の中心にあり、そうでない城も公的機関の庁舎や公園などに生まれ変わり、形を変えて地域の中心にあります。
江戸時代から現在に至るまで、城は多くの地域でその中心にあり続けていると言えるでしょう。
参考文献
Nara National Research Institute for Cultural Properties Repository: 010 Ⅱ関連論文 1.存城と廃城 -城はいつ終わったのか-
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/handle/11177/6593
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部