ドイツのフンボルト大学(HU Berlin)で行われた研究によって、ブラックホール同士が“かすめ合う”瞬間に放たれる重力波を上手く測定できれば、弦理論の核心である理論が単なる「数学的な飾り」ではなく、天体物理公式に姿を現す可能性が示されました。
これは、超微小な「ひも」の振動で万物を説明しようとする弦理論が、宇宙の巨大なブラックホール現象においても一定の実用性を持つ可能性を示すものです。
しかしそもそもなぜブラックホールのすれ違いから弦理論の兆候がみられるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年5月14日に『Nature』にて発表されました。
目次
- 観測不能と言われた弦理論を宇宙実験場へ
- ブラックホールを素粒子と考えると弦理論が見えてくる
- 数学と宇宙をつなぐ新・交差点
観測不能と言われた弦理論を宇宙実験場へ

一般相対性理論によれば、ブラックホールや中性子星など大質量天体が互いにすれ違う際、重力相互作用によって軌道が変化し、重力波が放出されます。
私たちはすでにブラックホール同士の衝突(連星合体)に伴う重力波を数多く観測してきましたが、一方でこうしたすれ違いざまの散乱による重力波の詳細な予測は依然として難しいままです。
ブラックホール同士が衝突せず近距離ですれ違う場合は「散乱」と呼ばれ、重力によるスリングショットのようにお互いを弾き飛ばす現象です。
散乱では合体が起きないため、放出される重力波は短いバースト状になり、ブラックホール同士は再び遠ざかっていきます。
こうした一瞬の重力波信号は連星合体のような長いチャープ信号に比べて捉えづらく、まだ未検出ですが、存在しないと断定はできません。
実際、LIGOやKAGRAなどの現行重力波望遠鏡は今後さらなる高感度化が予定されており、2030年代には欧州の地下観測所アインシュタイン望遠鏡や米国のCosmic Explorer、さらに宇宙重力波アンテナLISAといった次世代計画もスタートする見込みです。
これらの施設が稼働すれば、ブラックホールが合体せず高速ですれ違う散乱イベントによる重力波を初めて検出できる可能性が高いです。
このときに備え、理論面でも散乱イベントの波形を高精度に予測し、「どんな信号を探せばよいか」のテンプレートを準備することが求められています。
今回の研究はまさにこの課題に取り組んだものです。
今回の研究は非常に専門性が高いために、如何にざっと解説したバージョンを示します。
ざっくり解説
重力波といえば、ブラックホール同士が衝突・合体する際の大きな信号が知られていますが、今回の研究は「合体しない」ブラックホールどうしのすれ違い(散乱)に目を向け、その際に放出される重力波をかつてない精度で計算したところに大きな意義があります。
互いに接近しては離れていく一瞬の現象を厳密に解析するため、素粒子物理の散乱計算手法を流用し、あたかもブラックホールを「粒子」として扱う大胆なアプローチがとられました。
そこに登場したのが、弦理論における「カラビ・ヤウ多様体(複素3次元=実6次元)」と呼ばれる高度な幾何学構造です。
長らく理論上・数学上の対象と考えられてきたカラビ・ヤウが、実在の天体現象であるブラックホール散乱の重力波放射エネルギーを正しく記述する上で不可欠だったのです。
この結果は「弦理論は検証が難しい」という一般的なイメージを覆す可能性があり、ブラックホールという超巨大質量天体が生み出す重力波こそが、新たな“実験場”になることを示唆しています。
2030年代に稼働する次世代重力波望遠鏡(アインシュタイン望遠鏡、Cosmic Explorer、宇宙機 LISA)がこの波形を捕え、理論値と合致することを確かめられれば、それは弦理論の中核となる「紙上の六次元ドーナツ」が宇宙で本当に呼吸しているかを決定づけることになります。
弦理論は宇宙のあらゆる素粒子や力を一次元の「ひも」の振動モードで説明しようとする仮説であり、典型的には(時間1+空間9)=10次元を想定します。
目に見えない余剰の空間次元は極めて微小に折り畳まれて存在すると考えられ、その有力な折り畳み方がカラビ・ヤウ多様体です。

カラビ・ヤウ多様体は特殊な幾何学的性質を備えた空間構造で、複素3次元(実6次元)の“ドーナツ”をさらに複雑にしたようなイメージがしばしば用いられます。
弦理論はこうした追加次元や超対称性などを仮定する一方、直接的な実験証拠に乏しいため、「検証が難しい理論」として批判も受けてきました。
しかし今回のブラックホール散乱研究において、弦理論の核心部分と考えられる数学的エッセンスが重力波現象と直接結びついた可能性が示唆されたのです。
ある意味では、観測が難しいといわれてきた弦理論の要素を、ブラックホールという宇宙最大級の“実験場”で垣間見ることに成功した格好です。
ブラックホールを素粒子と考えると弦理論が見えてくる

では、研究チームはどのようにしてブラックホール散乱から弦理論由来の数学構造を見いだす方法を発見したのでしょうか?
鍵となったのは、素粒子物理で培われた散乱計算の手法をブラックホール研究に応用するというアイデアです。
ブラックホールは十分遠くから見れば大きさを無視して一点状の粒子として扱えるため、ミクロな粒子散乱のFeynman積分をマクロな重力散乱に移植できるのです。
具体的には、二体問題における重力相互作用を摂動論で近似展開し、段階的に精度を上げながら解析しました。
今回の論文では、その精度をこれまでになく高い第五次ポスト・ミンコフスキー近似(5PM)まで引き上げています。
この高次計算により、ブラックホール散乱角、放出される重力波エネルギー、そしてブラックホールの反動速度といった量を前例のない精度で導出することに成功しました。
主なポイントは次の三点です。
第一に、散乱角とは、ブラックホール同士が接近してから遠ざかるまでの過程で進行方向が重力によって何度曲げられたかを示す角度です。
第二に、重力波放出エネルギーは、すれ違いざまに放射された重力波が運ぶ総エネルギーを表します。
第三に、ブラックホールの反動速度は、放出された重力波に対する反作用としてブラックホールが蹴り飛ばされる運動量を速度として表したものです。
5PMというかつてない高次近似を実現するため、研究チームはスーパーコンピューターによる大規模計算を行いました。
問題を線形方程式の形に再構成し、数百万に及ぶFeynman積分を効率よく処理することで、三十万コア時間にも達する大規模計算を成し遂げています。
研究チームをさらに驚かせたのは、そうして得られた解の中に現れた意外な数学的パターンでした。
計算精度を引き上げるほど、カラビ・ヤウ多様体(複素3次元=実6次元)に関連する特殊な関数がエネルギー放出の解に自然と組み込まれることが分かったのです。
これらは本来、弦理論や代数幾何の文脈で抽象的に研究されてきたもので、今回の結果により現実の天体物理現象を高精度で記述するうえで欠かせない存在だと示されました。
近似の精度が低い計算では現れない幾何学的構造が、ブラックホール散乱の重力波エネルギーを正しく予測する際には必要不可欠だという点は、一般相対性理論と高度な数学の間に新たな橋をかけるものといえます。
数学では、ある関数の背後に特定の幾何学的図形が対応するケースが多々あります。
たとえば三角関数は円の幾何学と深く結びつき、楕円関数はトーラス(ドーナツ状の曲面)に対応します。
今回浮上したカラビ・ヤウ多様体は複素3次元版のトーラスをさらに複雑にしたような構造で、今回の計算に登場した特殊関数は、まさにその多様体の周期積分と密接に関係しています。
さらに研究チームは、得られた散乱角の精度を確かめるため、数値相対論シミュレーションと比較を行いました。
ブラックホール間の衝突パラメータが大きい(すなわち遠距離でのすれ違い)ケースでは、高次摂動計算の結果とシミュレーションがほぼ一致することが示されています。
一方、正面衝突に近いほど接近するケースでは双方の結果が食い違い始め、そうした領域ではさらなる摂動展開の高次化や数値計算の併用が今後の課題とされています。
数学と宇宙をつなぐ新・交差点

今回得られた高精度モデルは、観測データから微弱な散乱の重力波シグナルを確実に見いだす手がかりになるはずです。
さらに、本研究が予言するブラックホールのキック(反動)速度は天文学や宇宙論の領域でも重要な含意を持ちます。
散乱によってブラックホールが高速度で飛び去る場合、それが銀河中心からの放逐や銀河形成・進化への影響につながるかもしれないからです。
注目すべきは、カラビ・ヤウ多様体(複素3次元=実6次元)がブラックホール由来の重力波という観測可能な現象の解析に登場し、理論物理と純粋数学の新たな接点を示した点です。
「この発見によって、カラビ・ヤウ多様体の物理的な重要性を具体例で示せれば、自然界の現象を照らし出す新しい焦点を得られる」と、研究チームのグスタフ・ウーレ・ヤコブセン博士(マックスプランク重力物理学研究所/フンボルト大学)は語ります。
言い換えれば、今回の成果は長年仮説上の存在だったカラビ・ヤウ幾何が実際の物理において有効に機能する可能性を示すもので、理論と実験の橋渡しとして期待が高まるでしょう。
今回のブレークスルーは、量子場理論の散乱解析を一般相対論の難問に応用し、スーパーコンピューターを活用した大規模計算によって成し遂げられました。
主導したヤン・プレフカ教授(フンボルト大学)は「こうした学際的アプローチが、“原理的に不可能”とみなされていた壁を乗り越える好例になった」と述べています。
今後、研究チームはさらに高次の計算に挑み、得られた結果を次世代重力波観測のテンプレートへと組み込み、散乱重力波の検出を目指す計画です。
ブラックホール散乱に垣間見える弦理論の兆候は、まだ始まりに過ぎないのかもしれません。
宇宙最大級のブラックホール現象と究極理論としての弦理論との交差点で、新たな研究の地平が拓けようとしています。
元論文
Emergence of Calabi–Yau manifolds in high-precision black-hole scattering
https://doi.org/10.1038/s41586-025-08984-2
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部