高いところに立つだけで足がすくむ、そんな高所恐怖症に新たな光が差しました。
日本・情報通信研究機構(NICT)の最新研究によると、仮想現実(VR)の中で「自分が飛べる」という体験をすると、高所に対する恐怖が軽減されることが明らかになったのです。
VRが高所恐怖症の治療ツールとなるかもしれません。
研究の詳細は2025年5月13日付で科学雑誌『PNAS』に掲載されています。
目次
- VR飛行で高所恐怖症が和らいだ
- 「落ちても飛べる」と感じることが恐怖感の低減につながっていた
VR飛行で高所恐怖症が和らいだ
従来、高所恐怖症などの治療では「曝露療法」が中心でした。
これは恐怖を引き起こす状況に繰り返し安全に晒すことで、「この状況は危険ではない」と脳に学習させる方法です。
しかし今回の研究は全く異なるアプローチをとりました。

研究チームは、85人と74人の被験者(2つの実験)を対象にVR実験を実施。
まず参加者はVR世界内で300mの高所に設置された仮想の板の上を歩く「高所歩行タスク」に挑戦。
その際に感じた恐怖レベルは、皮膚電気反応(SCR:恐怖による発汗反応)と主観的恐怖スコア(SFS)で調べています。
次に「飛行群」と「コントロール群」にランダム分けられました。
飛行群はVR内で高さ5m以下の低空を7分間自由に飛び回る体験を行い、コントロール群はその映像を受動的に視聴するだけでした。
そして2回目の高所歩行タスクで測定された皮膚電気反応と主観的恐怖スコアを調べた結果、飛行群の方が恐怖が大幅に低減していたのです。
「落ちても飛べる」と感じることが恐怖感の低減につながっていた
チームの分析では、VR体験後に実施された質問紙調査の「安全予測スコア」が高い人ほど、恐怖反応の低下が強く現れました。
具体的には、アンケート調査で「高所から落ちても自分で飛んで安全な場所に移動できる」と感じていた人ほど、恐怖が大きく減少していたといいます。
これは「もし高所から落ちたとしても、自分の行動で危険を回避できる」という行動ベースの予測が、恐怖心そのものを和らげる可能性を示しています。
このことは従来の「繰り返し曝露」に頼る治療法とは異なる、まったく新しい恐怖低減メカニズムが存在することを示唆しています。
また、没入感や映像視聴などの影響は統計的に除外されており、実際に「自ら飛んだ」という体験こそが効果の鍵となりました。
飛行体験によって「万が一落ちても自分で飛んで安全に戻れる」という強い安心感が生まれ、2回目の高所歩行では初回ほどの恐怖を感じなくなったとチームは指摘しています。

一方で、今回はあくまでもVR内での結果であり、現実世界での高所恐怖症にも効果があるかどうかはわかりません。
それでも研究者たちは「VRでの飛行体験による行動予測が恐怖低減につながる」という成果を足がかりに、今後は現実世界への応用を目指すとしています。
高所恐怖症だけでなく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)など他の恐怖症治療にも役立つ可能性があります。
「空を飛ぶ」という非現実の体験が、現実の恐怖を和らげる――。
NICTによる今回の研究は、VRが単なる娯楽の枠を超え、医療や心理療法にも革命をもたらす可能性を示しました。
今後の臨床応用が進めば、VR空間での飛行訓練が高所恐怖症の克服法として標準治療のひとつになる日も遠くないかもしれません。
参考文献
VRで自ら飛ぶ体験をした人は、「落下しても飛べる」と予測し高所恐怖が低減される
https://www.nict.go.jp/press/2025/05/14-1.html
元論文
Transition ability to safe states reduces fear responses to height
https://doi.org/10.1073/pnas.2416920122
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部