数学は近代科学と密接に結びついていることもあり、西洋を中心に発展してきました。
そんな数学ですが、江戸時代の日本でも盛んに行われていたことはあまり知られていません。
果たして江戸時代の数学はどのようなものだったのでしょうか?
この記事では江戸以前の数学事情を紹介しつつ、算額という独自の文化や関孝和の軌跡を中心に江戸時代の数学を解説していきます。
なおこの研究は、森田健(2020)『日本文化としての数学 : 和算と算額』日本語・日本文化47巻p. 81-107に詳細が書かれています。
目次
- そろばんと塵劫記によって動き出した日本数学
- 問題が解けると絵馬に書いて奉納していた
- 和算の流れを変えた大天才、関孝和
そろばんと塵劫記によって動き出した日本数学

数学が日本に入ってきたのは奈良時代のことです。
この時代、日本の数学は中国からの輸入品でした。
奈良時代の役人たちは、北中国からの数学書をありがたく模倣して、律令政治の維持に活用していたとのこと。
実際、平城宮跡から出土した木簡には、「九九」が記されており、これが中国の『孫子算経』から影響を受けたものだと判明したのです。
当時の数学は単なる計算技術だけにとどまりません。
田畑の測量や納税計算、さらには天体の運行まで、その用途は広がっていました。
さらには『万葉集』においても、九九が詩の表現に利用されるなど、文化面でも数学が彩りを添えていたのです。
「八十一」と書いて「くく」と読ませる粋な技法。
古代の数学者たちは、実用と文化の狭間を軽やかに行き来する貴族のような存在だったのでしょう。
しかし、鎌倉から室町時代にかけて、日本数学界にはさほどの変化はありませんでした。
そして時は流れ、運命の転機が訪れます。
それは豊臣秀吉による朝鮮出兵でした。
歴史的には失敗とされるこの遠征、しかしながら、その陰でそろばんなる異国の道具が日本に舞い降りたのです。
それまでの日本にもそろばんがなかったわけではないものの、これ以降そろばんの輸入が本格的にはじまり、日本数学会の止まっていた歯車が動き出しました。
さらに1627年、吉田光由(よしだみつよし)が『塵劫記(じんこうき)』なる本を出版します。
この本、単なる数学書ではありません。
タイトルには「塵」と「劫」という仏教用語が含まれ、微小(塵)から巨大(劫)までの数字の世界観を表しているのです。
これは読ませるための工夫が色々されていて、田畑の面積計算や川や堤の工事に関する問題、さらには娯楽的な問題まで、多岐にわたる題材を取り入れており、出版されるや否や大ベストセラーとなり、版を重ねるうちに、粗悪な類似品(海賊版)までもが生まれました。
吉田自身この海賊版に頭を悩ませ、真に数学について考える者が読むように「未解決問題を巻末に載せる」という対策を講じました。これが後に多くの数学者たちの研究意欲を掻き立てる結果となったのです。
さて、江戸時代になると、数学は実用性を超え、文化的な営みへと昇華します。
読み書き算盤が広まり、個人塾が隆盛を極めたのです。
武士たちも農民たちも、皆が算術に勤しむ様子は、さながら日本全体が数学塾と化したかのようであります。
しばらくして、日本独自の数学「和算」が花開き、物語はその黎明を迎えました。
問題が解けると絵馬に書いて奉納していた

江戸時代、日本各地に広がった和算は、農村から都市まで、人々の生活に根差した文化となっておりました。
高度な数学は三都(江戸、京都、大坂)に集中し、大坂では和算家・橋本正数(はしもとせいすう)が天元術を先駆的に理解し、その名を歴史に刻んでおります。
彼が創始した「橋本流」は、数学の技術を広め、後の和算家たちにも多大な影響を与えました。
一方、地方でも数学は重要な役割を果たしておりました。
城下町の武士が三都で学び、帰郷後に塾を開き、農民や豪商がその門を叩く姿が各地で見られたのです。
学びを深めた者たちは、新たな数学的成果を得ると、それを「算額」として神社や寺院に奉納しました。
この算額とは、数学の研究成果を示す美しい絵馬で、図形の配置や色彩が芸術的な側面も持つ代物です。
現存最古の算額は1683年、村山吉重(むらやまよししげ)によって奉納されたもので、栃木県佐野市の星宮神社に大切に保管されています。
算額は4つの段落で構成されており、上から問題文、答え、立式プロセス、問題文の一般解を与える文です。
ただし立式プロセスの段落に関しては、とても簡潔に書かれていたり省略されていたりする算額がほとんどと言われています。
これは当時の和算家が全員ラマヌジャンのように突発的なひらめきを用いて数学をやっていたからではなく、数学の考え方などが流派によって異なっており、他の流派に自分の考え方を漏らさないようにしたためです。
算額には、難解な数学の問題が書かれており、それらは和算塾の存在を示す広告塔としての役割を果たすと同時に、学びへの感謝とさらなる向上を願う象徴でもありました。
当時の数学者たちは技法を秘伝として守りつつも、木版印刷による数学書の普及によって、多くの人々に知識を広めたのです。
その結果、日本独自の数学研究スタイルである和算は、17世紀終盤に確立し、200年以上の間、独創性に富んだ研究成果を生み出し続けたのでございます。
算額が語るのは、単なる計算技術の向上ではなく、人々が学びに向けた情熱と、数学という学問が持つ美しさなのかもしれません。
和算の世界に広がる物語は、今なお鮮やかに私たちの心を魅了するのです。
和算の流れを変えた大天才、関孝和

余談ですが先述したように和算界では未解決問題を巻末に記していましたが、その問題が解けた場合、解答と一緒に新たな未解決問題を載せて出版する遺題継承(いだいけいしょう)が盛んに行われていました。
しかしこれにより問題の難易度はインフレしていき、やがて誰も手に負えない域にまで達してしまったのです。
この壁を打ち破ったのが、天才数学者・関孝和(せきたかかず)です。
彼は問題ごとに新たな技術を編み出すのではなく、問題に適した方程式を立ててそれを解く新しいアプローチを提案したのです。
このアプローチの転換により、遺題継承に終止符を打ちました。
他にも関は微分法の概念を独自に発見するなど、後世に深い影響を与えており、和算の発展に大きく貢献しました。
このように、和算の「好み」から生まれた数学の連鎖は、関の手によってひとつの幕を閉じることとなったのです。
参考文献
大阪大学学術情報庫OUKA
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/75881/
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部