江戸時代は相撲興行が行われており、大盛況を収めていました。
そんな相撲興行ですが、江戸時代には男性が行う相撲だけでなく女性が行う相撲もあり、そちらも大盛況を収めていたのです。
果たして女性が行う相撲とは、どのようなものだったのでしょうか?
この記事では江戸時代に女相撲が行われていたことについて取り上げつつ、それがエロ以外の性質もあったことについて紹介します。
なおこの研究は、一階千絵(2003)スポーツ人類學研究2002 巻4号 p. 17-40に詳細が書かれています。
目次
- 小説内の描写から始まった女相撲
- エログロ要素はあったものの、それだけではなかった
- 女性への畏怖や活発さを容認する風潮があった江戸時代
小説内の描写から始まった女相撲
江戸時代というもの、なんとも面妖な時代でございます。
浮世の喧騒に紛れ、奇妙奇天烈な文化が花咲いたことは数多あれど、「見世物女相撲」なる一興もまたそのひとつ。
これを語らずして江戸の風情を語るなかれ、と言いたくなるものです。
さて、この女相撲、まずは文芸の世界にひょっこり顔を出しました。
天和2年(1682年)の井原西鶴『好色一代男』や、貞享5年(1688年)の『色里三所世帯』には、絢爛豪華な庭先で繰り広げられる女相撲が描かれております。
さらには近松門左衛門の浄瑠璃『關八州繋馬』にも、金太郎伝説をもじった趣向で、女相撲の場面が登場いたします。
されど、この時代における女相撲はあくまでフィクションの産物で、実際に興行として催された記録は皆無。
いわば絵空事の遊びでございました。
時は延享年間(1744年頃)に移り、ついに江戸・両国にて見世物としての女相撲が興行されるようになります。
当時の史料によれば、江戸の町では、「おお、男相撲よりも面白いかもしれぬ」と囁かれるほどに評判を呼びました。
これが単なる私催ではなく、興行として多くの見物客を集めたことは明白。
しかし、これが単なる品のない見世物だったのかと言えばそうとも言い切れず、「美しさと力強さの対比」が特筆されたことも興味深い点です。
続く明和年間(1768年頃)には、上方(京や大坂)でも女相撲が大いに流行します。
中には、力強さで知られる「板額」という名の力士が登場し、その勇姿が町人の間で語り草となるほどでした。
ところが、禁制の足音もまた速やかに迫り、この風潮は一転して抑圧される運命に。
京や大坂では、わずか数日のうちに興行が禁止されるという具合でございました。
それでも人々は工夫を凝らし、動物相手の相撲や盲人との組み合わせなど、より奇抜な形式で娯楽を追い求めました。
文政9年(1826年)の両国では盲人と女力士が土俵で交わる様子が記録され、そのユニークさはまた別の熱狂を呼び起こしました。
嘉永年間(1848年頃)には、女力士たちが美声を披露しつつ踊りまで加え、観客を沸かせる新たな形式も登場。
もはやこれが相撲と呼べるのか、という疑問を抱かせるほどに華美で、演芸的な要素が色濃くなったのでございます。
こうして時代の波に揉まれながら、女相撲という風俗は一種の娯楽として受け継がれていきました。
時に華やかで、時に物悲しく、それでもなお人々の心を掴み続けた姿は、まさしく江戸文化の一端を彩る光景であったと言えましょう。
エログロ要素はあったものの、それだけではなかった
江戸の世において、見世物女相撲がどのように成立し、人々の心を掴んだか。
その話をひもとけば、なんとも不思議で愉快、時に微妙な匂いを帯びた逸話が、次々と立ち上がって参ります。
まず、この見世物なるもの、ただ珍奇を並べれば良しというものではございません。
それが成り立つには、観客を驚かせたり感動させたりする「何か」が必須。
たとえば軽業や力技に見られる優れた身体能力、珍獣や奇草木が持つ希少性、あるいは繊細な工芸の美といったものです。
女相撲が人気を博した背景にも、こうした「見世物」としての魅力があったに違いありません。
相撲自体が持つ魅力は、力と力のぶつかり合い、技の応酬にあります。
観客は、その真剣勝負に人間離れしたパフォーマンスを見い出し、そこに酔いしれる。
相撲のルールが単純明快である点もまた、万人に楽しみやすい要素でございました。
女力士たちは稽古を積み、褒美を目指して真剣勝負を繰り広げたといいます。
それはまさに、男性相撲に匹敵する「ショースポーツ」としての側面を持っていたのです。
しかしながら、こうした「珍しさ」にエログロ的な色彩が加わったことも事実。
例えば、江戸時代の裸体に対する意識は現代ほど厳しくなく、女性がふんどし一枚で取っ組み合う姿が興行として成立していたのも、当時の文化的背景ゆえといえます。
さらには、盲人力士との取組という形式が追加され、これがまた猥雑な趣を加えました。
「相手を探る」盲人力士の動きは、エロい演出として観客を刺激する一要素になったのです。
また女力士や盲人力士の四股名に目を向けてみれば、それぞれの個性がにじみ出るものもあれば、滑稽味や差別的なニュアンスを帯びたものも見られます。
特に後年になると「乳ヶ張」や「穴ケ淵」といった四股名が登場し、興行の方向性が一層エログロ的になったことがうかがえます。
ところが、この女相撲にはもう一つの側面がありました。
すなわち、ジェンダーの表象という要素でございます。
相撲といえば男のものという概念を、女性がまわしを締めて土俵に上がることで覆す。
その異性のジェンダーを身に帯びる光景は、観る者に奇妙さや目新しさを感じさせ、非日常の空間を生み出しました。
実際、当時の記録には、力士として男装した女力士たちが「濡髪長五郎」のような男らしい役柄を演じたことが描かれております。
この「非日常性」こそ、女相撲が見世物として成立する鍵であったのでしょう。
女性への畏怖や活発さを容認する風潮があった江戸時代
それでは江戸の町人文化の中、見世物女相撲が如何なる文脈で受け入れられたのでしょうか。
それを理解するには、相撲とジェンダーの関係、さらには当時の女性観を深く探らねばなりません。
まず、「力」を巡る話です。相撲という競技が象徴する物理的な力、霊的な力、いずれも女性のそれは男性のものとは異なる位置付けにありました。
物理的な力について言えば、女性が持つ怪力伝説は時に説話や伝承の形で記録されています。
例えば、川から船を引き上げる女性、百人が動かせぬ石を一人で動かす女性――これらの話には、単なる怪力の逸話以上の意味が隠されています。
女性の「霊力」は、かつては祭祀や祈祷の主役だった女性が持つ神聖な力として信じられました。
江戸時代には、月経や出産の血が穢れとされる一方で、こうした生命を司る力への畏怖が残されていたのです。
この「見えざる力」は、女力士が土俵上で見せる力に何らかの神聖な裏打ちを与え、観客に一種の畏敬を抱かせたかもしれません。
一方で、江戸時代の女性は単なる従順な存在ではありませんでした。
特に江戸という都市では、「張り」「いき」「伊達」といった価値観が女性の活発さを肯定する風潮を育んでいました。
「きんぴら」や「おちゃっぴい」といった言葉が、当時の威勢のいい女性を指して使われたのも頷けます。
これらの娘たちは、お転婆でありながら、どこか恥じらいを残した可憐さを持つ存在として愛されたのです。
見世物女相撲もまた、この「町娘」像の延長線上に位置づけられるかもしれません。
女性がまわしを締め、男のジェンダーを纏うことで異性性の象徴を提示しつつ、それでもなお「根が女の事なれば」と観客に女性的な恥じらいを感じさせた――こうした非日常的でありながらどこか身近な存在が、多くの人々を惹きつけたのでしょう。
つまり、見世物女相撲は、単なるキワモノではなく、女性の物理的・霊的な力、そしてジェンダーの象徴性を見せる舞台であり、江戸の町人文化の価値観が凝縮された、一種の「生きた娯楽」として機能していたのかもしれません。
参考文献
江戸時代の見世物女相撲
https://www.jstage.jst.go.jp/article/santhropology1999/2002/4/2002_4_17/_article/-char/ja
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。