江戸時代の浪人が傘張りなどといった内職を行っているシーンは時代劇などでよく見かけます。
しかし副業を行っていた武士は何も浪人だけに限らず、仕え先のある御家人もしばしば副業を行っていました。
どうして江戸時代の御家人は副業を行っていたのでしょうか?
この記事では江戸時代の武士がどのような副業を行っており、副業についてどう考えていたのかについて取り上げていきます。
なおこの研究は、東京都江戸東京博物館紀要13号に詳細が書かれています。
目次
- 俸禄はあれど、支出も多くて苦しい生活だった御家人
- 植物の売買、傘張り、中には特技を生かした御家人も
- 武士の副業の中にもカーストはあった
俸禄はあれど、支出も多くて苦しい生活だった御家人
江戸幕府の御家人は、将軍の御直参として、幕府の一翼を担う者です。
たとえその禄高が一万石未満の身分であっても、何らかの役目に従事し、三十俵二人扶持を基本とした生活を送っていました。
この「三十俵二人扶持」というのは、言わば生活の基盤であり、貨幣換算で大体14両にあたります。
当時の庶民の年間の生活費が大体10両であることを考えると、十分これだけで暮らしていけるように見えます。
また町方同心として町奉行所に属する御家人たちは、町の治安を守り、諸掛を歴任したのです。
彼らの多くは日々の勤めに励んでおり、年功や手柄により、多少の加増があることもありました。
さらに御家人には役職に伴う役徳というものもありました。
同心たちは、任務の合間に得る余剰の物品や贈答品を役徳として享受したのです。
例えば、町中を巡回する際に得た物や、事件処理の際に町奉行から得る褒美などがこれにあたります。
これらは賄賂ではなく、職務上の正当な報酬として黙認されていたのです。
しかし、彼らの生活は決して贅沢なものではありません。
というのも御家人は俸禄に応じて家来を雇わなければならず、三十俵二人扶持の場合は2人の家来を雇うことが求められていました。
さらに武士の俸禄は先祖代々同じでしたが、江戸時代は貨幣経済が発展したということもあってインフレが進んでおり、一両は初期の頃は現代の価値で10万円ほどだったのに対して、幕末の頃には現在の価値で3000円にまで下落しました。
そのようなこともあって御家人の生活は時代を追うごとに厳しくなっていき、彼らは副業にて生計を補ったのです。
(※貨幣の現代換算はかなり難しい問題で、当時と現代の生活様式の違いなどもあるため、これらの情報から今でいう年収100万円程度の生活と考えないよう注意してください)
それでも、彼らは職務に励み、家族を支え、己の誇りを持って幕府のために尽くしました。
このようにして、御家人たちは裕福でもなく、貧困でもない、しかし誇り高き武士としての生活を守り続けていたのです。
植物の売買、傘張り、中には特技を生かした御家人も
それでは御家人たちは、どのような内職を営んでいたのでしょうか?
その中でも有名なのが、植物栽培です。
というのも江戸時代後期、江戸では園芸ブームが巻き起こっており、植物に対する需要が高まっていたのです。
特に、珍しい植物や花が高値で取引されることがあり、御家人たちはこれを機に大いに動き出しました。
例えば、四谷太宗寺で行われた鉢植えの展示即売会では、御家人や旗本の隠居たちがこぞって参加し、時には大名や町人と肩を並べて植物の売買を行ったのです。
珍品の植物が高騰する中、少給の御家人たちもこの市場に参入し、生計を立てるために内職として植物栽培を手掛けるようになったのです。
このように御家人たちにとって植物栽培はかなりメジャーな副業であり、町内の御家人同士が協力し合い、特定の植物を栽培し、その技術を高めることで、地域全体がその産業で知られるようになる例も見られるようになりました。
例えば、下谷の御徒町(現在の東京都台東区)では朝顔の栽培が盛んに行われ、御家人たちはその空地を植木屋に貸し出しながら、自らも朝顔の栽培に取り組んでいたのです。
こうした内職が町全体の名産となり、下谷御徒町が「朝顔の名所」として広く知られるようになったのも、この集団的な取り組みの結果です。
また、御家人たちは植物栽培に限らず、傘張りなどの手工業にも従事していました。
青山百人町(現在の東京都新宿区)では、傘張りが盛んに行われ、同心たちは協力して生産に励み、その製品を市場に出していたのです。
こうした内職は単なる生計手段ではなく、職人の技術向上をも促し、江戸の一つの文化として根付いていきました。
また傘づくりだけではなく江原素六のように楊枝(ようじ)作りを行ったりする者もおり、まさに多種多様な副業が行われていたのです。
このように御家人たちは、ただ武士としての誇りを持つだけでなく、日々の生活を支えるために知恵を絞り、工夫を凝らして生きていたのです。
植物栽培や手工業の内職は、彼らの生活の中で重要な役割を果たし、江戸の風物詩としても人々に愛されたいたことが窺えます。
武士の副業の中にもカーストはあった
しかし「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあるように、武士はたとえ貧しくとも気高くなければならないという価値観は江戸時代を通して残っていました。
そのようなこともあって、副業に対する御家人自身の考えは複雑なところがあったのです。
当時の人々は「武芸や学問の教授や刀研ぎといった武士らしい副業はまだ世間体がいいが、植物栽培や傘張りといった武士らしくない副業は世間体が悪い」と考えていました。
そのことは、先述した楊枝作りの副業を行っていた江原素六が楊枝を売る際に、夜間に脇差を見えないように挟んで頬被りをして売り歩いたことからも伺えます。
結局、御家人の暮らしは、忠孝武備という理想と、内職という現実の間で揺れ動くものでした。
彼らはそれぞれの事情に応じて様々な形で内職を行い、その中で生活を成り立たせていったのです。
まさに、江戸の武士たちは、世間体よりも日々の暮らしを優先せざるを得なかったことが伺えます。
参考文献
東京都江戸東京博物館リポジトリ
https://edo-tokyo-museum.repo.nii.ac.jp/records/318
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部