科学がまだあまり発展していない時代には、現代では考えられないような学説が堂々と主張されていました。
しかしそれなりに科学が発展した20世紀においてもそのようなことはあり、ソ連のルイセンコが主張していたルイセンコ学説がその最たるものです。
果たしてルイセンコ学説とはどのようなものなのでしょうか?
本記事ではルイセンコ学説について説明しつつ、どうしてこのような学説が受け入れられるようになったのかについて紹介します。
なおこの研究はロシア ・東欧研究 第36号2007年に詳細が書かれています。
目次
- 支離滅裂なルイセンコの主張
- 政治が科学を超えたソ連
- 英米の学者にバレるも、何とか取り繕う
支離滅裂なルイセンコの主張
ルイセンコはウクライナの農村出身の農学者です。
ルイセンコはキエフ園芸専門学校(現在のウクライナ国立生命環境科学大学)を卒業後、植物学の研究所でしがない研究員をしていました。
そんな彼が歴史の表舞台に立つのは、「春化処理」という農法を生み出したと主張した1928年です。
一般的なコムギは秋に播いて夏に収穫するというプロセスを取っており、これとは別で春に播いて夏に収穫する春播きのコムギもあります。
世界的には秋播きのコムギが主流ですが、秋播きのコムギはあまりにも冬が寒すぎる地域では栽培することが難しく、それ故ソ連では春播きのコムギが望まれていたのです。
ルイセンコは秋に播かれるコムギを低温に晒す春化処理をすることで、後天的に秋播きのコムギを春播きのコムギにすることができると主張したのです。
この農業技法は、当時の社会において重要な役割を果たしました。
1930年代初頭のソ連は大規模な飢饉に見舞われ、効率的な増産が求められていたのです。
その為ルイセンコの「秋播きのコムギを春播きのコムギに変えることのできる」という主張は、当時のソ連社会にとってとても有益なものだったのです。
またルイセンコはこの技術によって後天的な操作によっても遺伝的性質が変化すると主張し、進化論を否定しました。
秋播きのコムギと春播きのコムギは違う種類の植物であり、低温処理をしたところで種類が変わるわけではありません。
春化はあくまでコムギの環境の変化の適応能力を活かしただけであり、コムギそのものが持っていた性質が変わったわけではないのです。
その為現在ではルイセンコの主張は完全に否定されています。
政治が科学を超えたソ連
このような話を聞くと、「科学が未熟な時代のできごと」だと感じる人も多いでしょう。
しかしルイセンコが自説を発表した1930年代にはすでにメンデル以来の遺伝学が世界的に主流になっており、多くの生物学者がその理論に従って研究を行っていました。
当然ソ連も例外ではなく、多くのソ連の生物学者はルイセンコの説に対して反対したのです。
しかしルイセンコが行った農法はわずかながらも農場の食糧生産量を増やすことに成功したため、たちまちルイセンコはソ連国内において農業の英雄になりました。
またルイセンコの「後天的に獲得した性質が遺伝される」という説は共産党の「努力は絶対に報われる」という考えと非常に相性が良かったことや、ルイセンコ自身がレーニン主義の熱狂的な支持者で生家が小作人の家庭であったこともあり、ルイセンコは多くの生物学者の反対をよそにどんどん出世していきました。
さらにルイセンコは非常に速いペースで様々な農業政策を発表したため、他の研究者たちがそれが本当に正しいのかを検証する時間がなかったことも、ルイセンコの出世を助けました。
もちろんルイセンコが提唱した農業政策は共産党によるプロパガンダもあって一般庶民に広く受けれられており、これらを批判する研究者に対する風当たりは日に日に冷たくなっていったのです。
加えてルイセンコも自身の説に反対する研究者を非難するために、手にした地位を最大限に利用しました。
ルイセンコはオデッサ(現在のウクライナのオデーサ)にある淘汰学遺伝学研究所にて研究を進めていましたが、1936年にはそこの所長に就任し、遂には1938年に農業科学アカデミー総裁にまで登り詰めたのです。
その翌年の1939年、ルイセンコは1930年代の間続いていた論争に決着をつけるため、ニコライ・ヴァヴィロフら率いる主流派遺伝学者と直接対決しました。
遺伝学における対立を決する場となったのが、『マルクス主義の旗の下に(Под знаменем марксизма)』誌主催の遺伝と淘汰をめぐる討論会でした。
そこでヴァヴィロフは当時最先端だったショウジョウバエを使った遺伝子の研究を作物の品種改良に応用する方法を提案し、主流派の意地を見せたのです。
それに対してルイセンコはヴィヴィロフらを「役に立たないハエの研究に従事している遺伝学者」と批判し、実践的な栽培植物の研究に従事している自分たちにこそ理があると主張しました。
さらにルイセンコは「遺伝子という存在はプロレタリアート(労働者階級)的ではない」や「唯物弁証法(マルクス主義の重要な考え)に従えば自分たちの理論に行きつくのは明白」などと主張し、ヴァヴィロフら主流派遺伝学者たちを共産主義的ではないと批判したのです。
結局この討論会はルイセンコの勝利に終わり、その後ヴァヴィロフはスパイ容疑で逮捕され、他の主流派遺伝学者たちも処刑されたり職を追われたりすることとなったのです。
英米の学者にバレるも、何とか取り繕う
最大の宿敵であるヴァヴィロフら主流派遺伝学者を排除することに成功したルイセンコですが、トラブルも多く続きます。
なぜなら論争の2年後の1941年、ドイツ軍がソ連への侵攻を開始し、ソ連国内は学問論争どころではなくなったのです。
ルイセンコはそのような中でも疎開先のシベリアにてコムギ栽培の研究に従事し、自身の考えを補強する材料を作ろうとしていました。
さらにソ連政府は対独戦にて苦境に立たされ、英米との国交を回復させました。
その際に学問交流も奨励され、それまでほとんど交流のなかったソ連の情報が英米に流れていったのです。
当然ルイセンコ学説に関する情報もその例外ではなく、英米の生物学者たちは先述した『マルクス主義の旗の下に』などの情報を手に入れて検証を始めました。
そして1946年に2冊の英語文献が出版されたことで、ルイセンコ学説は世界に広まったのです。
一つはケンブリッジ大学の育種学者P.S.ハドソンらが出版した小冊子「New Genetics in the Soviet Union」です。
この書籍は、西側学界にとって未見の200以上のルイセンコ派の論文を引用し、その詳細な実験データが紹介されました。
著者たちは、ルイセンコ派の実験における不備や誤りを指摘し、農学実験上の決定的な不備として評価したのです。
もう一つの重要な出版物は、アメリカの遺伝学者ドブジャンスキーによって英訳されたルイセンコの著書「Heredity and Its Variability」です。
この書籍では、主にルイセンコの遺伝学説の理論的側面が取り上げられました。
しかし、この本は従来の遺伝学の先行研究を引用しておらず、実験の過程も不明瞭であり、循環論法(理論Aの根拠となる理論Bの根拠が理論Aになっているという論法)になっていて遺伝学から逸脱した用語が大量にあり、お世辞にも学術書としての体裁をなしていませんでした。
そのことから学者たちはルイセンコが正規の教育を受けた科学者でないと判断し、検証を行うことすらためらわれるほどルイセンコの説に対する信頼はガタ落ちしました。
しかし共産党が行っていたプロパガンダが功を奏してか、ソ連国内にてルイセンコの権威が揺らぐことはなく、1948年には農業科学アカデミーはルイセンコの説を「唯一の正しい理論」として教えるという声明を出すに至りました。
さらに同時期に遺伝学は「ブルジョワ疑似科学」と宣言され、ソ連国内で遺伝学の研究は行われなくなったのです。
このルイセンコの説は紆余曲折がありながらも、1964年にソビエト科学アカデミーにおいて撤回されるまで幅広く唱えられていました。
しかし日進月歩で発展している遺伝学の分野において16年ものブランクはあまりに大きく、ソ連の遺伝学の分野の研究は世界から立ち遅れることとなったのです。
またルイセンコの政策によってソ連の農地は荒れ果ててしまいましたが、政府はこれを「農民がブルジョワ的」だったからであったと判断し、多くの農民が粛清されることになりました。
昨今の世界では科学的に間違ったことを堂々と主張してもすぐに訂正されますが、ルイセンコの一件は科学を政治が歪めることの危険性を示しています。
参考文献
旧ソ連の遺伝学をめぐる学術情報の入手過程 (jst.go.jp)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees2001/2007/36/2007_36_72/_article/-char/ja/
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。