生命倫理の基軸が揺らいでいます。
東京大学と山梨大学などで行われた研究によって、日本の一般人と専門家が、ヒト胚を14日以上培養することを禁じる「14日ルール」の撤廃についてどう思うかが調べられました。
かつて14日ルールは世界で広く受け入れられており、日本の生命倫理にかんする指針も14日ルールをもとに作成されています。
しかし2021年、国際幹細胞研究協会(ISSCR)はガイドラインから14日ルールが削除されたことから、各国でも見直しが迫られるようになりました。
日本の一般市民や専門家たちは14日ルールの撤廃についてどう考えているのでしょうか?
今回は前半で14日ルールが策定された背景を紹介しつつ、後半で日本人の意識調査の結果を報告したいと思います。
研究内容の詳細は2023年3月23日に『Stem Cell Reports』にて公開されました。
目次
- 14日ルールが定められた本当の理由
- 日本の一般市民と研究者は14日ルールをどう考えているか?
14日ルールが定められた本当の理由
なぜ13日でも15日でもなく14日なのか?
かつて、ヒト胚を14日以上培養してはならないとする「14日ルール」は世界中の生物学者たちによって広く共有されていました。
13日でも15日でもなく14日が上限とされたのは、1つには14日を迎えるころになると胚に「原始線条」という構造が現われるからだとされています。
原始線条はさまざまな臓器が出現する直前に現れる構造であり、体の前後左右を決める軸となります。
当時にあっては、この段階までならば胚には苦痛を感じる感覚器官や脳が存在しないため、倫理的な負担も比較的少なくて済むとされました。
しかしより重要視されたのは「14日までの胚ならば双子になる可能性がある」という事実でした。
双子になれる胚ならば実験に使ってよくて、双子にならない胚では実験してはダメ、というわけです。
多くの日本人にとって、この理由は首をかしげるものでしょう。
というのもこの判断の根底には、極めて西洋的な個人主義の観念があるからです。
すなわち、双子になる可能性があるということは「1人の人間としてのアイデンティティーを持っていない」とする考えです。
ただ実を言えば、これら2つが14日ルールの十全な根拠になったわけではありません。
14日ルールのきっかけを作った1980年代のイギリスでは、ヒト胚の研究利用の是非を巡って大論争が起きていました。
利用推進派は人類の科学進歩のためにも、可能な限り培養を認めるべきだと主張する一方で、禁止派はヒト胚を人工培養することは生命の冒涜だと言い放ちます。
ですが水面下では同時に妥協案の作成も進んでおり、その妥協点として採用されたのが14日だったのです。
また1980年当時では生きたヒト胚を14日以降も培養し続ける技術がなかったという事情もありました。
つまり14日ルールは、政治的妥協と技術的限界、そして追加で「それらしい」理由付けによって定められたものと言えるでしょう。
ただその後の展開を追うと、14日ルールの策定は英断だったことがわかります。
技術が進歩するにつれて胚の培養技術は飛躍的に進歩し、マウスやサルの胚の培養実験では頭や手足が識別できる「胎児」といっていい段階までたどり着くことに成功したからです。
たとえば2021年に行われた研究では、人工子宮技術を用いてマウスの受精卵を胎児の段階まで成長させることに成功しました。
上の動画では胚の中に形成された心臓が盛んに鼓動している様子もみられます。
この段階に達すると原始線条どころか脳や神経を含む各種臓器が形成されてしまっています。
もし同じ技術が人間に用いられた場合、何が起こるかは容易に想像できるでしょう。
確かに14日ルールは政治的妥協の産物だったかもしれません。
ですが、現在の私たちが培養ポッドの中にヒト胎児が浮かぶ終末的光景を見ずに済んでいるのは、まさに14日ルールのお陰だと言えるでしょう。
しかし幹細胞技術の飛躍は14日ルールが策定された当時には想像できなかったような事態をもたらし始めました。
幹細胞を材料にした胚の人工合成です。
飛躍的な技術進歩が14日ルールを形骸化させている
幹細胞技術では理論上、細胞をどんな種類のものにも変化させることも可能です。
問題は、その「どんなもの」の中に受精卵や胚に似たものや人間の脳が加わり始めたことにありました。
たとえば2021年に行われたマウス研究では、幹細胞の塊だったものに操作を加えて、胚の様な構造(胚様体)を人工的に作成することに成功しました。
造られた胚様体は完全なものではなく「赤ちゃんマウス」となって生まれてはきませんでした。
しかし脳・心臓・血管・筋肉・腸など体の基本的な器官を備え、見た目にも頭部と尾部がわかる状態にまで成長していました。
また2022年に行われた研究では3種類の幹細胞塊を組み合わせることで合成胚様体が作成され、人工子宮で追加の培養が行われました。
すると胚の成長がさらに進み、マウスの全妊娠期間20日のうち、その半分近くなる8.5日まで正常な発達を遂げていたことが判明します。
これらの技術が発展すれば、幹細胞から造られたマウスやサルの赤ちゃんが生まれる日が来ることになるでしょう。
そして現在、世界中の研究者たちは同じ操作をヒト幹細胞に対して行った場合、何が起こるかを確かめようとしています。
一方、一部の研究者たちは、こうした疑似的な胚や胎児の作成は、倫理的なグレーゾーンに入ると考えています。
限りなく本物に近いヒト胚様体が作成された場合、個人としてのアイデンティティーを認めるか、それとも幹細胞由来の培養物(モノ)として扱うか、意見は大きく別れることになるでしょう。
幹細胞を変化させてヒトの脳を作ることもできる
幹細胞技術を利用することで人間の脳を培養することにも成功しています。
人工培養された脳細胞は「脳オルガノイド」と呼ばれており、2021年に行われた研究では脳から目をはやすことに成功しています。
またこの脳オルガノイドの目に光をあてたところ、光の信号が目から脳に伝達され、脳内で神経ネットワークが活性化していることが示されました。
実験を行った研究者たちは「脳オルガノイドは文字通り世界を見ていた」とコメントしています。
14日ルールが定められた背景には「14日までならば胚には苦痛を発したり受け取ったりする神経や脳が存在しないから」というものがあります。
しかし脳オルガノイド技術の進歩により、この部分も形骸化が進んでいきました。
そして2021年、国際幹細胞研究協会(ISSCR)はガイドラインから14日ルールを削除しました。
胚様体、人工子宮、人工培養脳(脳オルガノイド)などの先進的な技術は1980年代にはSFの中だけに存在した技術が現実のものとなり、天然のヒト胚に限って規制することに意味が薄れてきたからです。
しかし14日ルールがなくなれば、代わりのルール策定が求められることになります。
またそのさい、より大きな日数を設定した国のほうが、より多くの科学的知見を得られるのは明らかです。
(※14日までしか認めない国と100日まで認めている国では、その国の研究機関が得られる情報が圧倒的に違ってきます)
そうなると、もう歯止めをかける方法がなくなってしまいます。
14日ルールの崩壊は、ヒト胚培養技術の競争激化につながりかねません。
私たちは14日ルールをどうすればいいのか、新たな線引きをどこにすればいいのか、そして線引をするとして、かつてのような政治的妥協にゆだねるべきなのか……今こそ再び論じる時期が迫っています。
そこで今回、東京大学や山梨大学らの研究者たちは、日本人の14日ルールにかんする意識を調査することにしました。
日本の一般市民と研究者は14日ルールをどう考えているか?
日本人は14日ルールについてどう思っているのか?
答えを得るために研究者たちは一般市民3000人と幹細胞や胚関連の研究者535人にアンケートを行い14日を超えるヒト胚の培養を容認するべきか、禁止すべきかを尋ねました。
結果、上の図のような回答が得られました。
図からまずわかるのは、一般市民でも研究者でも容認派が禁止派よりも多いという事実です。
一般市民の場合、容認は37.9%であり、禁止の19.2%に対してほぼ倍となっています。
同様の傾向は研究者たちの間でもみられ、容認が46.2%に対して禁止はおよそ半分の24.5%に留まっています。
一方、一般市民と研究者を比べると研究者では判断不能の割合が大きく減り、容認と禁止の両方の割合が大きく伸びていました。
研究者たちが詳しくデータを分析したところ、一般市民の判断不能との回答も、ヒト胚や14日ルールにかんする理解度があがるにつれて低下し、容認と禁止の両方が増加することが判明しました。
結果を比べたとき、禁止すべきと考える人が一般人より専門家の方に多いことは意外に思う人もいるかもしれませんが、これは専門家の方が知識があるぶん、問題の深刻さもわかっているため、より慎重な態度を取る人も増えるのだと考えられます。
これまで科学にかんする情報提供を行えば行うほど、一般市民は科学技術に感じる脅威や不安が減って、科学技術への支持が高まると考えられていました。
しかし近年ではこの考えが間違いだとする証拠が増えており、科学知識の量は必ずしも科学技術への支持につながるわけではないことが示されています。
今回の禁止と考える専門家の方が一般人より多いという結果は、この報告と一致していると考えられます。
たとえば2018年に行われた研究では、科学技術にかんする理解度の高い人ほどゲノム編集などを受け入れる傾向があるものの、そのリスクに対する懸念も強くなっていくことが示されました。
理解度が高くなると中立的な態度が減り、容認と禁止の両方の比率上昇するという結果は、今回の研究にも当てはまるものといえます。
ただ研究者たちは、一般市民のほうが「判断できない」と答える傾向が強かったのは、胚にかんする研究に限らず、日本人の科学技術への基本的な態度も影響していると述べています。
たとえば再生医療研究を推進すべきかどうかを「日本・韓国・米国・英国・ドイツ・フランス」で尋ねたケースでは、日本は「わからない」と答えた割合が最も高くなっていました。
どうやら日本人は科学技術の是非において、他国に比べて意見を保留する人々が多いようです。
また宗教的信念が意識調査に表す影響を調べたところ、日本ではほとんど存在しないことが示され、他国との大きな違いとなりました。
研究者たちは日本で多くの人々がかかわる仏教の指導者たちが、ヒト胚の利用や中絶などについて、他国の宗教指導者に比べて明確な態度をとっていないことや、日本人の多くが熱心に宗教を信じていないことが原因だと述べています。
今回の研究はヒト胚培養にかんする研究者と一般市民の両方の意識を大規模に調査した最初のものであり、今後の政策決定の参考になると考えられます。
ヒト胚や胚様体の利用の是非は今後議論が避けられない問題です。
最後に研究者たちは14日ルールを見直すかを議論する場合にも、一般市民を置き去りにせずに、情報提供を続けることが重要であると結論しています。
参考文献
ヒト胚を14日以上培養する研究についての意識調査https://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/about/press/page_00224.html
元論文
Survey of Japanese researchers and the public regarding the culture of human embryos in vitro beyond 14 dayshttps://www.cell.com/stem-cell-reports/fulltext/S2213-6711(23)00052-8