1975年度日本リーグ表彰式で 得点王とアシスト王個人2冠に輝いたヤンマーディーゼル釜本邦茂=75年12月22日

<悼む>

日本サッカー界「史上最高ストライカー」釜本邦茂さんが10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。京都府出身。日本代表として68年メキシコ五輪で7得点を挙げ得点王に輝き銅メダルに貢献。国際Aマッチ男子歴代1位の75得点、日本リーグはヤンマーで202得点を誇る。93年Jリーグ開幕時のG大阪監督、日本サッカー協会の副会長、政治家としても活躍。最近は病気療養していた。通夜、告別式は近親者で執り行う。後日、お別れの会を開く予定だ。

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「僕と鎌田くんは『カマカマ』コンビだから。遠慮はいらないぞ」。

2人きりになった時、何度か伝えていただいた愛情たっぷりの言葉。私を記者としても人間としても後押ししてくれた感謝のワードだ。

釜本さんの一人称は「僕」だった。初めての出会いは10年11月。広州アジア大会でサッカー取材中の中国からアポなしで電話させていただいた。事務所の担当者は「今、不在です」。一応、海外使用の電話番号を伝えたが、接触は諦めていた。数時間後、電話が鳴った。「釜本ですが」。まさか-。正直、怖くて、頑固なイメージは激変。当時、大学時代の体育会言葉が抜けず「自分は」が一人称だった私は、妻から「やめて」と何度言われても曲げなかったが、「僕」に変わっていた。

なでしこジャパン企画も「僕の家でやろう」のひと声で「邦茂の部屋」と名付けて紙面を飾った。優勝した11年W杯ドイツ大会前には澤穂希を招き「澤さんは関東の人だからハモを食べてほしいな」。さらに優勝後、INAC神戸の7選手と祝勝会。自宅ですし職人が握る“邦茂寿司”でもてなし「川澄奈穂美さんは生魚がダメだからステーキを用意しなきゃ」。どんな相手にでも気遣う心も学びだった。

釜本さんからは「何でも聞いてくれ」「僕にもいろいろ教えてくれ」と数カ月に1度かかってくる電話が私の楽しみだった。テレビで育毛剤のCMが流れた時、失礼を承知で「増毛とかカツラじゃないか? っていう疑惑があるんですけれど」と聞いたことがある。 「ヘディングばかりして髪の毛が薄くなるなんてことを子供たちが思ったらサッカーやる人いなくなるだろ」と答え、さらに「で、どうなんですか?」と突っ込むと「それは言えないよ~」とけむに巻かれた。

レジェンドだけど、“僕”にとって勝手ながらお父さんのような存在との粋なやり取りは、いつまでも心に残る。もっと釜本さんにいろいろ遠慮なく聞きたいことがあった。【10~18年サッカー担当=鎌田直秀】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【悼む】釜本邦茂さん死去 失礼承知で「カツラですか?」と聞いた記者に…心に残る粋なやりとり