トラザメ(Scyliorhinus torazame)とその卵殻(人魚の財布)
図1 プロゲステロン投与により形成されたツルとトラザメの卵殻
図2 卵殻腺でツル(矢印)が形成されている様子(左)と、P4投与期間に応じたツル(矢頭)の変化(右、走査型電子顕微鏡による観察)
図3 P4投与によりツルを形成している卵殻腺の組織像
東京大学大気海洋研究所と国際基督教大学、アクアワールド茨城県大洗水族館の共同研究グループは、卵生軟骨魚類のトラザメ(Scyliorhinus torazame)において、性ステロイドホルモンであるプロゲステロンが卵殻の一部分である「ツル」の形成を誘導することを初めて明らかにしました。
〈発表のポイント〉
◆ 卵生軟骨魚類であるトラザメの生体内にプロゲステロンを投与すると、卵殻の一部である「ツル」の形成が誘導されることを明らかにしました。
◆ 本研究は、卵生軟骨魚類の産卵周期におけるホルモンの役割を直接的に明らかにした初めての成果です。
◆ 本研究成果は、絶滅危惧種が増加している軟骨魚類の生殖に関して、重要な知見を提供するものであり、軟骨魚類の保全に大きく貢献することが期待されます。
画像1: https://www.atpress.ne.jp/releases/357657/LL_img_357657_1.jpg
トラザメ(Scyliorhinus torazame)とその卵殻(人魚の財布)
■発表概要
東京大学大気海洋研究所と国際基督教大学、アクアワールド茨城県大洗水族館の共同研究グループは、卵生軟骨魚類のトラザメ(Scyliorhinus torazame)において、性ステロイドホルモンであるプロゲステロン(注釈1)が卵殻の一部分である「ツル」の形成を誘導することを初めて明らかにしました。サメやエイの卵殻は「人魚の財布」とも呼ばれ、トラザメの卵殻は殻本体の前後に巻きひげ状の「ツル」を持つ不思議な形をしています。これまで、トラザメを含めた一部の卵生軟骨魚類において、排卵・卵殻形成の直前に血液中のプロゲステロン濃度が一過的に上昇することは知られていましたが、その役割に関しては不明でした。
本研究では、成熟したメスのトラザメに対してプロゲステロンを投与することで、卵殻の「ツル」部分が形成されることを明らかにしました。卵殻の形成はツルの形成から始まることがわかっており、トラザメの産卵周期における血液中プロゲステロン濃度の上昇には、卵殻形成開始のスイッチを入れる作用があることが示唆されました。本研究の成果は、卵生軟骨魚類の生殖周期におけるプロゲステロンの機能を直接的に明らかにした初めてのものであり、絶滅危惧種が増加している軟骨魚類の生殖に関して重要な知見を提供し、軟骨魚類の保護、 海洋生態系の保全にも繋がることが期待されます。
本研究成果は、5月30日にZoological Letters誌に掲載されました。
■発表内容
【研究の背景】
サメ・エイ類(板鰓[ばんさい]類)とギンザメ類(全頭類)からなる軟骨魚類は、様々な生殖にかかわる特徴を有しています。多くの一般的な魚とは異なり、軟骨魚類は全ての種が交尾を行い、雌の体内で卵は受精します。その繁殖様式も卵を産む卵生から、体内で胎仔を育て出産する胎生まで様々であることも知られています。また、卵生種は種ごとに特徴的な形態をした「卵殻」という固い殻を形成し、その中に受精卵を包んで産卵することも大きな特徴です。この卵殻はその特徴的な形態から「人魚の財布」などと呼ばれ、水族館などの展示を通して広く親しまれています。しかし、このような特徴的な軟骨魚類の生殖が、どのような分子によって、どのように制御されているのかは不明でした。
本研究グループの近年の研究により、卵生軟骨魚類であるトラザメに対してエコー検査を行うことで、解剖すること無く、体内の輸卵管(注釈2)内に保持された卵殻を可視化できることがわかりました(Inoue et al., 2022)。このことにより、非侵襲的な産卵周期の把握(注釈3)がトラザメにおいて可能になりました。さらに同研究により、プロゲステロン(P4)というホルモンの血液中濃度が、卵殻形成の直前に一過的に上昇することがわかりました(Inoue et al., 2022)。このP4の一過的な上昇はエイの仲間でも報告されていましたが(Koob et al., 1986)、その機能に関しては全く不明でした。そこで、トラザメ産卵周期におけるP4の役割を明らかにするべく研究を開始しました。
【研究内容】
初めに、トラザメの産卵周期におけるP4の数日間にわたる上昇(以後、P4サージ)を再現するため、シリコンチューブを用いたステロイドホルモン投与手法を確立しました。チューブ内に、ゴマ油に溶解したP4を封入し、トラザメの腹腔内に外科的に埋め込むことで、チューブ内のホルモンが徐々に溶出し、長期間血液中に投与されます。この方法を用いて、繰り返し産卵を行う繁殖状態のメスのトラザメに対し、P4の生体内投与実験を行いました。P4投与後の個体を解剖したところ、本来は卵殻が保持される輸卵管内が黒ずんでいる様子が観察され、その中には卵殻の一部である「ツル」のみが大量に存在していることを発見しました(図1)。「ツル」は卵殻の前後から伸びる巻きひげ状の構造物で、卵殻が作られる最初の段階で形成されます。
自然下では、産卵の際にこのツルを海藻や岩場に巻きつけることで、海流によって卵が流されてしまうのを防ぐ役割があると考えられています。
画像2: https://www.atpress.ne.jp/releases/357657/LL_img_357657_2.jpg
図1 プロゲステロン投与により形成されたツルとトラザメの卵殻
P4投与により輸卵管内が黒ずんでおり(A)、中にはコイル状の長いツルが存在していました(B)。Cはトラザメの卵殻で、矢印がツルを示しています。
ツルは卵殻線(注釈4)という器官で形成され、P4の投与期間を追って観察すると、ツルはP4の投与期間中は伸び続け、2日目には急激に太くなることもわかりました(図2)。この現象は、他の性ステロイドホルモンを投与しても起こりませんでした。さらに、自然状態でまさにP4サージが起こっている個体でもツルの形成が確認されたことから、P4は卵殻腺に作用して、卵殻の一部である「ツル」の形成を誘導することが明らかとなりました。
画像3: https://www.atpress.ne.jp/releases/357657/LL_img_357657_3.jpg
図2 卵殻腺でツル(矢印)が形成されている様子(左)と、P4投与期間に応じたツル(矢頭)の変化(右、走査型電子顕微鏡による観察)
ツルは卵殻線の左右2箇所から形成されます。ツルの太さは、P4投与1日目は非常に細く、肉眼での観察は難しいほどでした。2日目では肉眼でもはっきりわかるほど太くなり、5日目には再び細くなりました。
さらに、P4投与によりツルを形成している卵殻腺を取り出し、組織切片(注釈5)にして観察した結果、卵殻腺の分泌管細胞からツルの構成成分(コラーゲンだと考えられる)が分泌され、ツルを形成する様子が観察されました(図3)。また、分泌管の管腔内に存在するツル成分の量とツルの太さには、強い相関があることもわかりました。
画像4: https://www.atpress.ne.jp/releases/357657/LL_img_357657_4.jpg
図3 P4投与によりツルを形成している卵殻腺の組織像
卵殻腺内の分泌管でつくられた物質(ツル成分)が、より合わさるようにツルを形成する様子が観察できました(右上)。P4投与2日目では、分泌管の管腔内に大量のツル成分が存在していました(右下)。このツル成分の面積とツルの直径には正の相関があることもわかりました。
本研究により、卵生軟骨魚類の生殖周期におけるプロゲステロンの役割が初めて明らかとなりました。トラザメの卵殻形成過程において、ツルの形成は最初に起こる現象です。したがって、トラザメの産卵周期におけるP4サージの役割の一つは、「卵殻形成開始のスイッチを入れること」にあると考えられます。
【今後の展望】
乱獲や混獲、地球温暖化などの影響により、近年、主要なサメ・エイ類の資源量は70%減少し、現存種のうち30%を超える種が絶滅危惧種に指定されています(Dulvy et al., 2021)。海洋生態系の高次捕食者である軟骨魚類は、その繁殖の特徴から、いったん数を減らしてしまうと回復させることが困難だと考えられており、軟骨魚類の保護・保全は危急の課題です。本研究の成果は、産卵過程のホルモンによる制御を直接的に明らかにしたものであり、将来の人為的な繁殖の可能性を含め、軟骨魚類の保護や海洋生態系の保全にも繋がることが期待されます。
トラザメの卵殻とは異なり、ツルのない卵殻を形成する種も多数存在します。さらには、ネコザメの仲間の卵殻はドリル型、ゾウギンザメは葉のような形をした卵殻を作るなど、卵生の軟骨魚類は種ごとに多様な形をした卵殻を作ります(図4)。「卵殻の一部であるツルのみが形成される」という本研究のユニークな結果は、卵生軟骨魚類の多様な繁殖形態を明らかにするヒントになると考えられます。しかし、これまでのところ、人為的に引き起こされるのはツルの形成だけであり、なぜ卵殻全体の形成が起こらないのかは不明のままです。今後は、卵殻全体の形成に必要な因子を明らかにするべく研究を進め、「人魚の財布」の作り方の全体像を明らかにしていきます。
画像5: https://www.atpress.ne.jp/releases/357657/LL_img_357657_5.jpg
図4 軟骨魚類の多様な卵殻
〈関連のWeb掲載記事〉
「サメにエコー:超音波画像診断と ホルモン測定からサメの産卵周期を読み解く」 (2022/6/18)
https://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/topics/2022/20220618.html
〈参考文献〉
Inoue T., Shimoyama K., Saito M., Wong M.K-S., Ikeba K., Nozu R., Matsumoto R., Murakumo K., Sato K., Tokunaga K., Kofuji K., Takagi W. and Hyodo S, 2022, Long-term monitoring of egg-laying cycle using ultrasonography reveals the reproductive dynamics of circulating sex steroids in an oviparous catshark, Scyliorhinus torazame. General and Comparative Endocrinology, 327, 114076.
https://doi.org/10.1016/j.ygcen.2022.114076
■発表者
東京大学
大学院理学系研究科 生物科学専攻
下山 紘也(博士課程)
大気海洋研究所
高木 亙(助教)
兵藤 晋(教授)
アクアワールド茨城県大洗水族館 魚類展示課
徳永 幸太郎(副参事)
国際基督教大学 教養学部
小林 牧人(特任教授)
■論文情報
〈雑誌〉Zoological Letters
〈題名〉Progesterone initiates tendril formation in the oviducal gland during egg encapsulation in cloudy catshark (Scyliorhinus torazame)
〈著者〉Koya Shimoyama*, Mai Kawano, Nobuhiro Ogawa, Kotaro Tokunaga, Wataru Takagi, Makito Kobayashi & Susumu Hyodo
〈DOI〉 https://doi.org/10.1186/s40851-023-00211-y
〈URL〉 https://zoologicalletters.biomedcentral.com/articles/10.1186/s40851-023-00211-y
■研究助成
本研究は、科研費「軟骨魚類研究への逆遺伝学的解析の導入(課題番号:19K22414)」、公益財団法人日本科学協会笹川科学研究助成の支援により実施されました。
■用語解説
(注釈1)プロゲステロン
性ステロイドホルモンの1種です。ヒトでは、女性ホルモンの1つとして知られ、妊娠等に重要な役割を果たします。
(注釈2)輸卵管
卵生種が持つ管状の器官です。卵殻腺の前後に存在し、トラザメの場合、卵殻に包まれた受精卵は後部輸卵管に1-2週間程度保持されてから産卵されます。
(注釈3)非侵襲的な産卵周期の把握
通常、体内に存在する受精卵の有無を調べるためには解剖を行い体内の様子を調べる必要があります。私たちは、飼育下のトラザメに毎日エコー検査を行うことで、トラザメを傷つけたり麻酔をかけたりすることなく、産卵周期を把握できるようになりました。
(注釈4)卵殻腺
軟骨魚類に特有の器官で、ツルを含めた卵殻の形成に加え、卵殻中で受精卵を保護するゼリー状物質の分泌、さらには交尾後の精子を蓄える場でもある、「多機能器官」です。トラザメの卵殻腺は、丸くリンゴのような形をしており、左右に1つずつ存在します。
(注釈5)組織切片
組織・器官の形態や細胞の様子を詳細に観察するため、組織を薄切したものです。切片に対して様々な染色を行うことで、組織の形や特徴、遺伝子や分子の存在を詳細に観察することが可能になります。
〈研究に関する問合せ〉
東京大学大気海洋研究所 海洋生命システム研究系 海洋生命科学部門
教授 兵藤 晋(ひょうどう すすむ)
Tel : 04-7136-6202
E-mail: hyodo@aori.u-tokyo.ac.jp
情報提供元: @Press