公開経営指導協会の理事長・喜多村豊氏が世界を元気にする挑戦者たちを迎え、日本の将来について語り合うリレー対談。第8回目は、ロック魂で日本のモノづくりを牽引し続けるゲーム界のヒットメーカー・兼松聡さんをお迎えし、その熱きスピリッツに迫ります!

テクモへ転職後、アーケードゲームの営業を経てヒット作を連発

喜多村: 風貌はロックミュージシャンのように見えますが、兼松聡さんはほとんどの有名なゲームメーカーにノンアポで出入りできてしまうゲーム業界のレジェンドです。まず、兼松さんがゲームの世界に足を踏み入れたきっかけを教えてください。

兼松:大学出てから三菱のグループ企業に8年間勤めてまして、30歳という節目の年に、もっと自分に合った仕事をしたいというのがあったんですよね。本当は音楽業界に行きたかったんですが、正直、音楽では飯が食えないかなとも思ってて。で、次に考えたのがゲーム業界だったんです。

喜多村:30歳までサラリーマンを勤め上げて、そこからゲーム業界だったんですね。

兼松:当時、まだ店頭公開したばかりのテクモ(現コーエーテクモゲームス)というメーカーでしたが、面接でやたら怒鳴られたのを覚えてますね。僕は市川高校っていう進学校を出てたんですが、大学は日大だったんで「この怠け者が!」みたいなことを言われて(笑)。

喜多村:その時は反論しなかったんですか?

兼松:いえいえ、ごもっともですと(笑)。高校では音楽もやってましたし、原宿でダンス踊ってた、いわゆる竹の子族だったんで。

喜多村:そうだったんですか。竹の子族からは有名な俳優さんもたくさん出ましたよね。で、叱られながら採用されてゲームメーカーで働き始めたと。

兼松:そうなんですけど、入社すると肩書きに「社員(見習い)」って書いてあって、加えて部署が「合理化推進室」という。「なんだこれ?」と思ったら、役員を何人か退陣させろという部署でね。「いや、オレ、見習いなんだけど」みたいな状態で、ずいぶん社員から嫌われながら半年ほど仕事してましたね。

喜多村:見習いなのに社員を切る仕事をしてたんだ(笑)

兼松:その後、日本でゲームセンターが流行ったので、その管理をする部署や、アーケードゲームの販売部隊に行って。その時に、まあまあ売り上げは出したんですよ。正直言って、テクモってあまり売れるような商材がなかったもんで、自分で商材を見つけてきて、顧客も自分で開拓して。アーケードの営業は3、4年やってました。

喜多村:そうだったんですね。前回対談した方もそうなのですが、営業経験のある方は現場の必要なことをよく知ってますよね。

兼松:その後、開発部門を統括することになり、当時3つのセクションに分かれていた開発を横断させたりして……やっとその頃からテクモはヒット作が出るようになったんです。当時、板垣伴信が中心となって作った「デッド オア アライブ」や、僕が手がけた「モンスターファーム」は、僕らが辞めた後、今でも脈々とシリーズが続いていますね。

慕っていた会長が亡くなった翌年に創業を決意

喜多村:テクモさんにいるときは、どうだったんでしょう、独立は考えずに目の前の仕事に邁進されてたわけですか?

兼松:ええ。自分が辞めたときは上場企業になっていましたが、自分のやれることがやれた会社でしたし、自分の中ではテクモを世界で名を轟かせるような会社にしたいという思いが一番でしたから。

喜多村:それってとても大事なことだと思うんです。ファーストリテーリングの柳井さんが早稲田大学で講演したとき「起業するためにはどういう会社に入ればいいでしょうか?」と質問した学生がいたのですが、柳井さんは一言「そんな気持ちで入られたら会社が迷惑だ」と。兼松さんの場合は、会社の名を上げようという気持ちで働いて、会社も上場し、ご自身もヒット作を送り出し、次のステップを考えた時が起業だったということですね?

兼松:うん、あとは会長が魅力的な人でしたから。会長が亡くなられた翌年の命日に、私は会長の奥様に辞表を出しました。お墓参りに行った後「すみません、会社を辞めたいです」と。会長がご存命だったら辞められなかったかもしれませんが(笑)、2008年にヴァルハラゲームスタジオ(現ソレイユゲームスタジオ)を立ち上げたという経緯です。

喜多村:そうでしたか。起業すると自由にできる反面、大企業の看板がなくなるとヒト・カネ・モノを集めるのに苦労する面もあると思いますが。

兼松:まあ、事前準備はしてなかったので最初は不安でしたけど、2週間くらいでバンバン注文が入ったんで、1年目はめちゃくちゃ儲かりました。結婚したばかりの社員が「ローン組めません」みたいなことはありましたけどね。4人で立ち上げたのですが、それまで10年以上一緒に仕事してきたメンバーだったので、お互い会社の人間というより「兼松組」みたいなクローズな関係でした。

喜多村:いい信頼関係だったんですね。大変な時もお互い状況を理解し合えるような。

兼松:でも、良かったのは最初の1年だけ。あとは山がなくて「谷あり谷あり地獄あり」でしたよ。リーマンショックでマイクロソフトとの契約が飛んで、THQというアメリカの大手ゲーム会社と契約したら倒産して、その後、任天堂さんに行ったりもしましたが、ゲームの仕事は次に決まるまでの間が、半年開きますから。恥ずかしながら給与を遅延したこともありました。ただ、その時に、社員が自分の預金を使ってくれとか、土地を使ってくれとか言ってくれてね。すごい会社でした。

喜多村:結局、ポテンシャルのある人がいれば、モノもコトも作れて、それがお金を生むと。今の時代、逆にお金を優先に考える人が多くて。お金を持てば会社も作るより買っちゃえばいいみたいな風潮もありますが。

兼松:ありますね。僕が苦手なタイプの人たちです。

喜多村:それだと、なぜこの会社を立ち上げて、なぜ頑張ってるのかという精神が引き継がれないじゃないですか。一緒になって生む苦労をしないと達成感が感じられない。

兼松:そうですよね。自分たちはどちらかというと、国内向けというよりも地球向け。会社を作ったのも「MADE IN JAPANってものを世界の子供たちに伝えたい」。そういう思いでやってきました。

喜多村:この対談シリーズではテクノロジーを扱う先端企業の方々にも出ていただいてますが、皆さん、こうして掘り下げて話を伺うと、そうした思いや生みの苦労をそれぞれ経てきているんですよね。先ほど任天堂とおっしゃいましたが、ニンテンドーDSで「桃太郎電鉄」を復活させたのも兼松さんだそうですね。 兼松: そうですね。「桃太郎電鉄」は国民的ゲームでありながら版権の都合で7年間出せていたなかった。何とか復活させたいと思っていたのですが、ヴァルハラにハドソンの元専務の人間がいたので、彼と私とで動いて、任天堂さんも巻き込む形で復活させることができました。

若い世代が少ない時代だからこそ、一人ひとりがパワーを持とう

喜多村:現在、兼松さんはキャラクターグッズのショップ「TOIVO(トイボ)」やコラボカフェも経営しているそうですが、カフェはどちらにあるんですか?

兼松:池袋の新文芸坐という映画館の中です。やっと軌道に乗ってきたところですが、今後は映画館という場所を生かしてライティング上映をしたり、声優さんのイベントをやったり、お互いシナジーが得られることを仕掛けていきたいと思っています。キャラクターグッズも作るものによって全然売り上げが変わったり、非常に面白いですね。先ほど言った「MADE IN JAPAN」の発信ということで、来年、海外に出店する計画もありますし、やはり日本のコンテンツを世界中に広めていきたいというのはありますよね。

喜多村:そうですか。先日は20代の方にもインタビューしたのですが、新しい日本の文化を作り出して海外に進出したいというビジョンを持つ人は若い世代にも多い印象を持ちます。

兼松:それはいいことですね。僕は東京オリンピックや大阪万博、それからクレイジーキャッツの植木等さんのような人に影響を受けているので、高度経済成長期の日本のような元気を取り戻したいという思いでやってますけどね。

喜多村:植木等さん、サラリーマンがみんな頑張っていたあの時代に、明るさを届けてくれた方でしたね。じゃあ、ゲーム作りの方もまだまだやっていくわけですか。

兼松:まあ、ゲーム作りというのは100億くらい平気でかかりますし、投資していただいた方々になかなか返せない時代もあって。実は60歳になるちょっと前、会社を売却する話もあり、その際、投資いただいた分は返さないといけないということもあって、会社を抜けたんですよ。で、ゲーム作りは疲れるから止めようかとも思ったんだけど、会社抜けたと同時にまた人が集まってきちゃって(笑)。結局、モバイル向け、プレステ向けなど、プロジェクトごとに会社をいくつかに分けて経営して、やっぱりゲーム作ってますね……。

喜多村:僕らが知っているファミコンの時代から、今やAIやメタバースのような技術革新が起きてますが、これからのゲームってどんな世界になっていくんでしょうか?

兼松:AIがゲームを作れる時代というのは、たぶん来るんだと思います。デバイスも遊び方も変わっていくと思いますね。けれど、僕はゲームには昔から変わらない普遍性があると思っていて、今はストーリー性の高いものや視覚的なものなど、いろいろな種類のゲームがありますが、結局「ボタンを押して面白いか面白くないか」が根っこだと思うんですよ。スーパーマリオの音楽が鳴って、ボタンを押すとマリオが動いてそれだけで面白い。ゲームは言語や宗教、人種も関係なく受け入れられるものだし、その言葉を超えた普遍的なところは大事にしたいですね。

喜多村:なるほど。最後に、今の兼松さんが、次のゲーム業界、あるいは日本に求められる人財というのは、どんな人たちだと思いますか?

兼松:うーん、人財の前に、これは日本だけじゃないですが、少子高齢化で子供が少なすぎますよね。日本の国力だとか元気というところで言うと、もっと若い世代が増えないといけないと思いますし、今の若い子たちにはとにかくいろんなことを経験してもらいたいなと思います。僕の前の会社は決して大人数ではなく50人程度でやってましたが、少数精鋭というのか一騎当千みたいな社員が多かった。若い世代が少なくなっても一人ひとりがパワーを持ってね、デカい役割を担ってほしいなと思っています。

◆兼松聡 (かねまつ さとし)
三菱製鋼入社後、ゲーム開発メーカー・テクモに転職。販売・営業部門を経て開発部門統括に就任し「モンスターファーム」シリーズ等の看板タイトルを手がける。2008年、ヴァルハラゲームスタジオを創業し「桃太郎電鉄2017 たちあがれ日本!!」「NARUTO TO BORUTO シノビストライカー」を制作して「鬼滅の刃 血風剣戟ロワイヤル」を発表。現在、株式会社ロックスピリッツ代表取締役、株式会社アンチョビ執行役等を務める。

株式会社ロックスピリッツ
所在地:東京都渋谷区代々木1-53-1 マイタワーレジデンス2103
TOIVO公式サイト: https://toivo.tokyo/

◆喜多村豊(きたむら ゆたか)
一般社団法人 公開経営指導協会 理事長
株式会社ティーケートラックス 代表取締役社長
学校法人早稲田実業学校 評議員理事・校友会副会長
一般社団法人 公開経営指導協会
所在地:東京都中央区銀座2-10-18 東京都中小企業会館内
URL: https://www.jcinet.or.jp/

情報提供元: アーバンライフメトロ
記事名:「 世界を元気にする日本人の誇りを持つ熱き挑戦者たちリレー対談 日本の将来はあなたによって創られる! <第8回>ボタンを押して面白いかどうか、それが今も昔も変わらないゲームの原点。