日本でもヨガを実践することが一般的になってきた今、ヨガのエクササイズ的な要素以外に、心や思考に作用する“ヨガの教え”に興味を持つ方も増えています。この連載では、ヨガの教え=ヨガ哲学を体系的に学べる『ヨーガスートラ』を、ヨガインストラクター養成校のTOP講師たちがリレー形式で解説していきます。


心の動きを収めるために必要なこと

第2回でご紹介した『ヨーガ・スートラ』第1章4節では、心と自分自身の混同によって翻弄される私たちの感情の波立ちについてみていきました。

ヨーガチッタヴリッティニローダハ(ヨガとは心の反応を収めることです)
「心の反応」は目で見えるものでも、手で触れられるものでもないため、捉えどころがありません。それゆえ、私たちは無意識のうちにその心に支配され、心をコントロールしようとしているはずの私たちが、簡単に心にコントロールされてしまうのです。
今回は、その捉えどころのない心をいかにして収めるか?その方法について書かれている文章をみていきます。
第1章12節:アッビャーサ・ヴァイラーギャービャーン タン ニローダハ

(修習と離欲によって、苦悩の原因となる心の動きは収めることができる)

出典:ヨーガスートラ

修習とは繰り返し行うこと、離欲とは執着しないことです。繰り返し行うことはある種の執着にもみえますし、何事も執着しなかったら長く繰り返し行うことはできないように感じます。一見真逆のように捉えられるこの両方を達成していくことで、どうして心の動きを収めることができるのでしょうか?

日記を書くことで客観視する力を育んだ日々

何がきっかけで書き始めたか定かではありませんが、私は最近まで20年間ずっと毎日日記を書いていました。恐らく子どもながらに、自分ではコントロールできない時間の流れや、一瞬で消えてしまう不確かな感情を留めておきたくて文字にして残すという方法を選んだのだと思います。
日記には、一日を振り返り、その日一番心が反応した事柄についてと、その時自分はどう感じたか?という、起きた出来事に対する自分の感情が書かれています。この日記を書く過程で、私はその日に感じた心の反応を反芻し、「なぜあの時私はそのような感情になったのか?」を分析し、文章にして残すという『心の動きの視覚化』をしています。
そうすることで、一瞬で消えてしまうと感じていた不確かな感情を、目で見える確かなカタチとして残しておきたかったのかもしれません。日記を毎日書くということは、今やその感情の最中に居ない冷静な自分が、一日の終わりに今日体験した感情を再生し、既に新鮮でない感情がゆえ、落着きをもって自分の感情の推移を分析するということを日々繰り返します。
そのため、日記を書き続けることは、自分の感情の波立ちを把握し、客観的な視点を育むことに通じると感じています。

日々を書き残すことは“今”を生きているのか

ところが、私は今年になってその20年間書き続けた日記をパタリと止めました。客観性を養うのに有効的と感じていた『日記を書き続けること』を何故急にやめたのか?その理由は、「“今”を生きていない」と感じたからです。
私たちは個人の力では止めることができない時間の中で“今”を生きています。その“今”はいくら文章に書き残しても時を止めることはできません。それなのに、私は日記を書くことで“今”を真空パックしたように留めて、カタチに残すことで手元に置き安心していたのです。
日記に頼っていると自分の記憶は日記に依存し、日記を書けない日があると私の心理的な時間軸は永久にその日で一時停止となり、本来の時間軸から置いてきぼりにされたような気分になります。
それは実際“今”を生きてないことと同じです。書き残すことによって自分が安堵する日記への依存心と執着に気がついた時、日記を書きたいと思った当初の目的からずれている違和感を覚え、私は日記を書かなくなりました。

日記で客観性を養ったからこそ“今”の大切さに気付く

どんな動機で日記を書こうと思ったか明確には覚えていないものの、そこには自分の“生”を実感したいという感覚や、生きた証を残したいという思いがありました。その目的を達成するためにとった日記を書くという手段が、いつの間にか私の記憶の依り所となって存在感が増し、その手段が目的化していったのです。
進むべき道は後ろでも横でもなく、前にしかありません。巻き戻しが効かない過去に執着し、目の前の“今”に向き合っていない姿は、本来目指していたゴールではないのです。その本来のゴールがすり替わったことに気付けたのも、長年日記を書き続けたことによって培われた客観視があったからだと感じています。
この視点があったからこそ、書くこと自体への依存によって本来のゴールから反れてしまったことに気付き、スパッと手放すことができたのだと思います。
そして現在は、自分の記録を残す後ろ盾がないからこそ“今”が大切に思えてくると実感しています。日記の中の時間軸で生きるのではなく、いきいきとした一瞬一瞬を丁寧に味わいたいです。

繰り返してきた積み重ねがあるからこそ、見極められる視点を得られる

皆さんも目的を見失ったまま、惰性で続けている習慣はありませんか?その習慣化しているものの目的が明確に答えられないのであれば、それはもう既にあなたにとっては必要のないものなのかもしれません。
人は月日の成長に伴って、その時大切にしたい価値観も変わってきます。昔の自分にとっては大切だと考えていたものも、自分の成長とともにその価値観が時代遅れに感じることもあります。
「今の自分にとって大切なものは何か?」それを刻々と移り変わる時の中で、常に最新の状態に更新し続けることが必要になってきます。依存や執着、欲望にあっけなく占拠されてしまう心を上手くコントロールするには、大切なことのために手放すことができるまで、継続する努力がそこにはあるのかもしれません。

情報提供元: Tonoel
記事名:「 【やさしく学ぶヨーガスートラ】“今”の自分に大切なことを見極める