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後にバブル景気と呼ばれる未曽有の好況に沸いていた1980年代後半の日本。日本製品は“Japan as №1”と称され、その余勢を駆って日本の企業は海外の土地や芸術品などを相次いで購入していた。そんな喧騒の最中、日本の自動車メーカーは豊富な開発資金をバックに新しいカテゴリーのクルマを精力的にリリースしていく。
シーマやパイクカーといった大ヒット作を生み出し、同時に「90年代には技術の世界一を目指す」という“901運動”の旗印を掲げていた日産自動車は、好景気を背景に新しいクルマのカテゴリーへの参入を画策する。すなわち、“大型高級サルーン”市場への進出だ。従来はメルセデス・ベンツやBMW、ジャガー、キャデラックなどの欧米車で占められていたマーケットに、日産はまっさらな新型車をもって挑もうとしたのである。
■日本ならではの個性を具現化した高級車の開発
新しい大型高級サルーンを企画するに当たり、日産の開発陣は世界中で高い評価を受けている日本製品の優位性を踏まえ、独自の解釈でアレンジした高級車像を模索する。日本ならではの高級サルーンを創出し、そのオリジナリティ性で市場での勝負を仕掛けようとしたのだ。
スタイリングに関しては、高級車では定番のメッキグリルを廃し、その代わりに七宝焼きの専用オーナメントを装着するという独自のフロントマスクを構築する。サイドビューは2880mmのロングホイールベースを活かした伸びやかで流れるようなラインを創出。さらに、ダイカスト製のドアハンドルやアルミ材のサイドウィンドウモールを装着し、本物感と重厚感を演出した。リアセクションはコンビネーションランプ&ガーニッシュを幅広のU字型でアレンジし、90年代に向けた斬新さを強調する。ボディサイズは全長5090×全幅1825×全高1425~1435㎜という立派な体躯に設定。ボディカラーにも凝り、塗料に含まれるカーボングラファイトの作用で光源や見る角度の変化に応じて色味が変わる“トワイライトカラー”を採用した。
インテリアについては、「人とクルマの一体感」の追求がメインテーマとなる。インパネとサイド、さらにリア回りの造形は、乗員を優しく包みこむような柔らかな曲線基調でデザイン。また、ドアの開閉およびキーの抜き差しに応じて運転席とステアリングホイールが自動的に動き、乗降性を向上させるオートドライビングポジションシステムの先進機構も装備した。各部のアレンジにも工夫を凝らし、インパネには漆を塗ったうえでチタン粉を吹きつけ、さらに金粉を蒔絵のように散りばめる“KOKON(ココン)”仕様を採用。シート地には厳選した上質素材のレザーとモケットを用意した。
開発陣のオリジナリティに対するこだわりは、メカニズムにも存分に反映される。搭載エンジンはシリンダーブロックとヘッドにアルミ合金製鋳物を採用し、可変バルブタイミング機構やマルチポートインジェクションも組み込んだ新開発のVH45DE型4494cc・V型8気筒DOHC32Vユニットで、パワー&トルクは280ps/6000rpm、40.8kg・m/4000rpmを発生する。組み合わせるトランスミッションには、シフトアップおよびダウン時にエンジントルクを制御する専用セッティングのDUET-EAⅡ(4速AT)を採用した。駆動方式は高級サルーンの定番レイアウトのFR。足回りは同社のスカイラインやフェアレディZに設定して高い評価を博していた4輪マルチリンク形式を導入し、高級車のキャラクターに合わせてチューニングを決定する。さらに、市販車としては世界初の“油圧アクティブサスペンション”装着車をラインアップに加えた。
■キャッチフレーズは「ジャパン・オリジナル」
日産初の大型高級サルーンは、「きっと、日本が変わっていく」という謳い文句を掲げたティーザーキャンペーンを経て、1989年10月に発表、翌月から市販に移される。車名は米国市場の新販売チャンネルのネーミングをそのままつけ、「インフィニティQ45」(G50型)と称した。
ちなみに、インフィニティ(INFINITI)は北米市場でのさらなる販売強化を狙って日産が新設した高級車の販売チャンネルの名称である。アメリカではGMがキャデラック、フォードがリンカーン、クライスラーがプリマスといった高級車ブランドを設けるのが一般的で、日本の自動車メーカーでもホンダが1986年にアキュラ(Acura)を立ち上げていた。米国で高級車市場に参入するためには、クルマの出来だけではなく、それなりのステイタス性を持った店舗、調度品、接客など、高度なイメージ戦略が必要だったのだ。日産ではイタリア語で無限を意味する“INFINITI”から命名した「インフィニティ」ブランドを1989年に設立。そのフラッグシップモデルとして、「INFINITI Q45」をリリースした。また、インフィニティのブランド・ロゴは、無限の彼方へと向かう開けた道と日本の象徴である富士山を表していた。
キャッチフレーズに「ジャパン・オリジナル」とつけたインフィニティQ45の車種展開は、標準仕様のほかに本革内装と鍛造アルミホイールを装備した“Lパッケージ”、Lパッケージに油圧アクティブサスペンションを加えた“セレクションパッケージ”という計3タイプが用意される。車両価格は520~630万円(東京標準価格)と、当時の数ある日産車の中で最高価格帯に位置していた。
市場に放たれたインフィニティQ45は、その独特の高級車コンセプト、具体的にはグリルレスのフロントマスクに七宝焼きのオーナメント、トワイライトカラー、蒔絵風のKOKONインパネなどで注目を集める。また走りに関しても独特で、4輪マルチリンクのシャシーやVH45DEエンジンによるパフォーマンスは、このクラスの高級車としては異例にスポーティな味つけだった。
オリジナリティあふれる高級車造りを市場でアピールしたインフィニティQ45。しかし、販売成績の面ではデビュー当初を除いて苦戦を強いられる。当時の日産スタッフによると、「主な要因は2点。フロントマスクと強敵の存在」だったという。高級車の顔=立派なグリルという概念が強かった当時の日本市場では、グリルレスのマスクは不評を買う。さらに、欧州の高級車造りとユーザーの傾向を徹底的に研究して開発に活かし、インフィニティQ45と同時期にデビューした「トヨタ・セルシオ(輸出名レクサスLS400)」が、市場シェアを圧倒したのだ。インフィニティQ45は動力性能の高さやスポーティな走りなどで好意的な評価を得たものの、セルシオの重厚なスタイリングや室内の静粛性の高さ、そして高級車らしいゆったりとした乗り味にはかなわなかったのである。
■マイナーチェンジでフロントグリルを装着
インフィニティQ45の市場シェアを引き上げようと、開発陣は渾身のマイナーチェンジや車種追加を相次いで実施していく。
まず1990年10月には、安全性の強化と装備の充実化を実施。とくに、V-TCS(ビスカスLSD付トラクションコントロールシステム)やオートリターン機構付リアパワーシートといった先進機構の装備が注目を集める。また同月、インフィニティQ45のホイールベースを150mmほど延長し、専用装備品を満載したVIPカーの3代目プレジデント(JG50型)を市場に送り出した。
1993年6月になると、内外装をメインにしたマイナーチェンジを敢行する。不評だったフロントマスクには、新たに縦桟基調のメッキグリルを装着。さらにヘッドライトやボンネットフード、バンパーなどのデザインも一新した。内装では、高級車の定番アイテムである木目パネルを新たに採用。また、シート表地の変更なども行った。
ユーザーの志向に合わせる仕様変更を実施したインフィニティQ45だったが、販売成績はそれほど回復せず、そのうちにバブル景気崩壊の余波による日産自体の経営の逼迫が深刻化するようになる。そして北米マーケットでは、1996年にFY33型系シーマが2代目のインフィニティQ45と称して市場デビュー。日本でも同年9月、やはりFY33型系シーマに統合される形でインフィニティQ45が市場から退くこととなった。
人気の面ではセルシオの影に隠れ、苦戦を強いられ続けたインフィニティQ45。しかし、日本の自動車メーカーによる高級車市場への参入は、当時の海外の高級車メーカーに少なからぬ影響を与えた。とくに樹脂パーツの仕上げのよさや製造時のコスト面などが注目を集め、結果的に従来の高級車造りの概念を大きく変えることとなる。さらに「大衆車メーカーでも高級車の分野に進出できる」という事実が証明され、後のフォルクワーゲン社などの車種戦略にも多大な作用が及んだのである。