数々の傑作アニメを創り出してきた「タツノコプロ」黎明期の様子を、ささやきレポーターこと笹川ひろし氏のエッセイと当時の資料と共に届ける本連載。第一回では、タツノコプロ創業のエピソードをお伝えした。



 



第二回では、テレビアニメの制作が始まったばかりの1960年代のアニメ業界の様子を紹介する。まずは、ささやきレポーターが体験した、真夏のびっくりなお話である。



 





~第二回:ついにアニメ制作。それは冷房もない社屋で始まった(1965年)~




昔、昔、それほどでもない昔・・・、タツノコプロが出来立てホヤホヤの頃。スタッフも増えてきて、社屋も継ぎ足しで少し広くなってきた。でも、社屋と言っても、俄かつくりのプレハブ二階建て住宅で、体の大きな人が階段を歩くとギシギシ揺れた。



 



一番辛かったのは、夏の猛暑日で、まだ冷房装置も完備されていなかった。アニメーターたちの描く動画用紙の上に彼らの汗がポタポタ落ちていた。



 



クーラーを取り付ければ解決する話だが、まだその余裕が無い。



 



そこで、考えついたスタッフの名案はタツノコの歴史に残る。



 



或る暑い日にお客がやって来た。二階のアニメーター室は、まるで サウナ風呂状態だったが、そこで初めての冷房作戦がはじまった。



 



「少々お待ちください、ただ今から直ぐに涼しくなりますから」



 



すると、突然雨が降り出した。その日は快晴の日で、雲のかけらも無かったのにだ。



 



窓からは雨だれがザーザーと落ちるのが見えた。お客は、吃驚して「ま、まさか!ここだけ雨が降っている?」と。タネを明かせば、屋根の頂点に長いゴムホースを這わせて、ホースのアチコチに小さな穴を開けた自家製雨降り冷房装置だったのだ。



 





ホースの先端は、水道水の蛇口に繋がっていて、蛇口をひねると雨が降るという、超アナログ作戦大成功と言う苦労話。



 





でも、涼しくなったのは事実だから、いいね。



 



 



文・イラスト:ささやきレポーター(笹川ひろし)




 



■1960年代、アニメスタジオはベンチャー企業だった?



1965年のタツノコプロ社屋。ささやきレポーターいわく「俄かつくりのプレハブ二階建て住宅」


第1回の連載でアニメ制作会社は、存在すら世間に知られていなかったお話を紹介した。それもそのはず、タツノコプロが創業した時代はそもそもアニメ制作会社の数が少なかった。



 



現在まで続く最も歴史が古いスタジオの東映アニメーション(当時は東映動画)が1956年創立、1962年創立の虫プロ、1963年にテレビアニメに進出したTCJ(現エイケン)。1962年創立のタツノコプロを含めても、数えるほどしかなかった。アニメ業界自体が生まれたばかりで、いまで言えば“ベンチャー企業”である。



 




一番辛かったのは、夏の猛暑日で、まだ冷房装置も完備されていなかった。アニメーターたちの描く動画用紙の上に彼らの汗がポタポタ落ちていた。



 



 クーラーを取り付ければ解決する話だが、まだその余裕が無い。




……という笹川氏の話からも、そのベンチャーっぷりがうかがえることだろう。



 



若い業界であれば、そこで働くスタッフも皆、若かった。社長の吉田竜夫氏も30歳前後、笹川氏を含めたスタッフは、当時はみんな20代から30代である。ホースで雨を降らせる奇抜なアイディアも、そんな若さゆえだろう。そしてこんな破天荒な環境だからこそ、日本中を魅了するアイディアがタツノコプロから次々に飛び出したのだ。



 



 



■タツノコプロがアニメ会社を東京の西に引き寄せた



創業したばかりのタツノコプロが本社を構えたのは、東京都・国分寺である。この立地が後のアニメ業界のあり方を左右することになる。1960年代に数えるほどしかなかった日本のアニメ制作会社は、一般社団法人 日本動画協会の調べによれば、2018年の現在は600社以上。その約7割が東京都の西部地区に集中している。特に中野寄り西のJR中央線、西武新宿線、西武池袋線近辺に集中しているのが特長だ。



 



これは国分寺のタツノコプロをはじめ、大泉学園の東映アニメーション、阿佐ヶ谷の東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)といった初期のスタジオがここに集中して位置していたからである。



 



アニメーション制作には膨大な資材が伴った。それらを運ぶスタジオ車


当時のアニメ業界と言えば、アニメの動きと絵のもとになる原画・動画が手描きであることはもちろん、アニメの絵はセル画と呼ばれるセルロイドの板に彩色されたもの。アニメ会社のスタッフは、原画や動画、セル画、フィルムが仕上がると次の工程に進むため、手に抱えて、人や車で運んでいた。重いものだけに近くにあるとありがたい。そこで新しいアニメスタジオとスタッフは次々と東京西部に集まったのだ。



 



 



■第一作『宇宙エース』が大ヒットでスタート



タツノコプロの出発点となり、その後の方向性を定めたのが1965年から1966年にかけて放送された『宇宙エース』である。笹川氏がエッセイで描いた時代、ちょうどそのころに産声を上げた作品だ。



 



主人公の少年・エースは、家族とはぐれ地球に落ちてきたパールム星の王子だ。わんぱくなパワーで大活躍するエースの姿は、当時の新しい創作分野であったアニメにかけるタツノコプロのスタッフとも重なっていたに違いない。



 



主人公の少年・エースは、なんと宇宙人!タツノコプロは創業第一作から挑戦的だった


 



番組放送当時は、すでにいくつものSFアニメが登場していた。しかし『宇宙エース』は世界観もキャラクターも、メカニックデザインも、テレビアニメのために作られたオリジナルで勝負した。これが大当たり。子どもたちはテレビの前で夢中になり、高視聴率を獲得した。



 



 



■脚本・演出・監督まで……黎明期のスタッフは万能人



笹川ひろし氏。1977年、鷹の台スタジオにて


『宇宙エース』の制作を支えたひとりが、笹川ひろし氏だ。黎明期のアニメは制作フローも確立していない時期だけに、何もかもが思考錯誤。限られたスタッフがいくつもの仕事をこなした。そこで笹川氏が大活躍することになる。



 



笹川氏は『宇宙エース』の脚本から演出、監督を担当。つまり、物語を作る根幹に関わる部分である。しかも作品のクレジットからは、絵を描く仕事の作画にまで参加していたことがわかる。まさにマルチな才能の発揮ぶりだ。



 



しかも番組は一年間も続くから、その仕事量は相当なものである。『宇宙エース』は笹川氏の代表作の一つであると同時に、アニメ制作のキャリアの第一歩を踏み出した作品になった。



 



『宇宙エース』記念すべき第1話の録音台本


『宇宙エース』で培ったノウハウは、以降のタツノコプロの作品に引き継がれていく。



 



当時の絵コンテ。まだ「タイムボカン」が「他異夢ボカン」だったころ


1975年の『タイムボカン』に始まるタイムボカンシリーズも、笹川氏の代表作だ。明るいコメディタッチは『宇宙エース』と異なるが、新しいものへの挑戦、魅力的なデザインは『宇宙エース』以来の伝統を受け継いだものであった。



 



タイムボカンとは昆虫デザインのメカを指す。主人公の丹平、淳子、ロボットのチョロ坊、オウムのペラ助の後ろにあるのがタイムボカンⅠ「タイムメカブトン」


タイムトラベルの実験中に消息を断った木江田博士を捜すため、助手の丹平と博士の孫娘・淳子はタイムマシンで旅に出る。唯一の手がかりは、宇宙一高価な“ダイナモンド”があるところ。悪玉マージョ一味は、そのダイナモンドを手に入れるため、丹平たちを追いかける


貴重! タイムボカン、レーザーディスクのジャケットラフ画


 



第3回では、本格的にテレビアニメに乗り出したタツノコプロがいかに企画を生みだしたのか。アニメづくりの核心となる「企画」に迫る予定! お楽しみに。



 



 



つづく



 



第一回:吉田三兄弟との出逢い・会社設立(1962年)



 




©タツノコプロ



情報提供元: citrus
記事名:「 【ヘンなアニメ会社・タツノコプロの秘密】1965年のベンチャー企業? サウナのような過酷な会社に“万能人”が集結した