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――では言葉というより、ジャニーさんが舞台に向かう姿勢を見て学んだということでしょうか。
錦織 そうだったんだと思います。年を取ってから(改めて)わかったところがあって。僕はどちらかというと、リアリティを求めてやっていっちゃった方なので。歌ったり踊ったり飛び跳ねたりしていましたけれど、それはジャニーさんの好みに合わせてやっていた部分があった。人間20歳も過ぎてくると、自然に精神的にも大人になっていくじゃない。その時に、例えばミュージカルといっても物語、台本があってストーリーがあるとすると、若い頃はどうしても深みを出したいとか、若い時の方がいぶし銀になりたがったりするようなものでね。でも、今考えたらそうじゃないな、というのはジャニーさんがわからせてくれたのかな、と思っていて。それは、自分が(舞台を)つくるようになってからわかったことで、そういうことも本に残したかったので、著書の中でも触れていますね。こういう(演出の)仕事を与えてくれたのも、ジャニーさんだったから、演出という仕事を始めるきっかけにはなりましたよね。
――きっかけの一つに、23年続いた少年隊の舞台『PLAYZONE(プレゾン)』もあったのでしょうか?
錦織 『プレゾン』というのは若い頃にやっていて、23年間続いたんですけれど、僕にとってはデビュー後なので……。舞台のつくり方の根幹としては『プレゾン』があったと思いますけれど、僕としてはもう成人もしていたし、(ジャニーさんと)一緒にものづくりをしていた、だいぶ後期な気がするんですよ、20歳超えてくると。それより10代の、ジャニーさんと一緒に住んでいてまだ持ち歌がなかった頃、それこそ洋楽のカバーを歌って、ソウル・ミュージックやジャズ、ザ・ローリング・ストーンズのようなロックまでやりましたけど、そういったデビュー前の子どもの頃、10代でニューヨークに連れて行ってもらったりした時の方が波乱に満ちていたという感じがします。
――つかこうへいさんの舞台には何度も出演されています。稽古中もセリフが変わっていく演出で有名な方でしたね。
錦織 稽古場でも変わっていくけれど、本番が始まってからも変わっていくんですね。つかさんは客席に座って見ているということはまずなくて、舞台の両サイド、上袖(かみそで)、下袖(しもそで)という役者がスタンバイしている場所にいつもいて。そこからまた口立て(口頭でセリフを伝える)をしてセリフが変わったりということがあって。演劇界でいうと、僕も東宝劇場とか、普通のスクエアな舞台に出たりしたこともあるんですけれども、そういった他の舞台と比較すると、あまりにも演出家参加型の舞台過ぎて、僕の中ではものすごく「こんなのあるのかな?」と感じる演出でしたね。演出家の印象というと、通常は客席の真ん中にテーブルと椅子が置いてあって演出家席になっていて、手をポンポン叩きながらやっているイメージがあるじゃないですか。でも、そういうんじゃないんだ、参加しているな、と思いましたね。
――舞台袖にいるつかさんに会うとセリフが変わってしまうので、つかさんがいない方の袖からはけたと、植草克秀さんとのYouTube『ニッキとかっちゃんねる』でもお話しされていましたね。
錦織 そうですね。まあ、有名な話です。当時、つかさんの舞台に出ていた人達は、みんな気持ちはわかっていただけると思うんですよ。本当は下手から出なくちゃいけないけど、つかさんが下手にいるからギリギリまで上手にいるようなことは、同じ気持ちだと思いますよ。ある時、ちょっとトラブルが起こってね。舞台上にスイカを落としたり、つかさんは色々なやんちゃをやっていましたけれど、それでスイカが割れて舞台上に飛び散ってしまった時があって。次は舞台上で僕が動きのあるナンバーを披露するところだったので、慌てて舞台袖にいる劇団の子達に布ウエスを渡して、なんとか踊っているようにごまかしながら(飛び散ったスイカを)拭いて来れないか、という話になってね。「次に錦織が登場する時に滑っちゃいけないから、衣装が汚れてもいいからなんとか拭いてこい」と、つかさん自身が布ウエスを一生懸命配っていて。その姿が、僕の中ではジャニーさんと似ていたんですよ。
錦織 ジャニーさんは、僕達がまだ若い頃、例えばちょっとでも音程が取れていないとか……舞台中の音と客席の音というのは実はバランスが違いますから、半音ピッチとかちょっとずれちゃう場合もあるんですよね。そうするとジャニーさんはどんどん袖に来てたんですよ。本番をやりながら。ジャニーさんが舞台のどこにいても、僕らもまだ目が良くてすぐわかるから。立ち位置が悪かったりしたら、ブロックサインみたいに(身振り手振りで)ちょっとこっちへ寄れ、とか逆に寄り過ぎ、とか色々なことをやるので、僕らもその司令塔を見ながら動いていたんですよ。だから、ジャニーさんとつかさんは、ちょっと似ていたんですよね。
――改めて錦織さんが演出家として一番大切にしていることがあれば教えてください。
錦織 演出家として大切にしていることが何かというのは漠然とし過ぎちゃっているんですよ。僕の場合は演出家としてやってきたから、こういう『演出論』という本を書きましたけれど、実は演出をやらせてもらったから芝居がわかったとかじゃなく、役者としてどのようにいればいいのかとか、そういうことが反対側にいると見えるんですよね。こういう役者だときっといいんだろうな、こういう感じでいれば制作泣かせじゃないアーティストだな、とかそういうのもわかってくるし。だから、役者だけやってる時というのは、飲みに行けば多少演出家の悪口になったりとかね、あそこ何であんな風にやるんだろう、とか言っていましたけれど、演出家になってみたら、ああ、そうか、こういう風にやられていたんだな、と(わかりました)。とにかく希望を通すには遠い道のりがあるんだな、というのがわかりましたよ。色々な事情がありながらそうなっていたんだな、というのがすごくわかりました。(役者と演出家)両方やらせてもらったのでね。
今回書籍のタイトルは『演出論』になっていますが、(演出だけではなく)表現について色々書いたので、最初は『表現論』にさせてもらおうなんて話していて、タイトルについては少し戦ったんですけれどね。だから、『演出論』という本だから演出について聞くということになっているかもしれないけれど、どこか『演技論』のようなところもあると思うんだよね。そっち(演技)側に寄ったかな、と自分で思っちゃってる。ずっと出る立場だったから、僕は演出していても基本的に“自分だったら”と考えるんですよね。ある役として台本をいただいたら、初日の立ち稽古、俺だったらどういったかな、と考えがち。僕は演出家席に座っているとアイデアがあまり浮かんでこなくて。こうやってほしい、ああやってほしい、というのは真ん中で見ていてもあまり浮かばないので、「今日は登場人物の中で主役じゃないけど、こっちの助演的な人、俺だったらどうなんだろうな、考えてみよう」と、ちょっとその立ち位置に行ってみたりとか、そういうつくり方をしてしまうので。
――そのあたりはジャニーさん、つかさんの姿勢が受け継がれているのでしょうか。
錦織 もちろん、つかさんはいつも役者の隣にいてそれを(僕も)真似しているんですけれど、割と名だたる演出家は座っていない人が多い気がしてね。僕がびっくりしたのは、石井ふく子先生も座ってないでご自分で舞台側に出て来て指導してくれたりとか、舞台の上、役者の中にいるんですよ。
>>単独インタビュー②へと続く
【錦織一清Profile】
1965年生まれ。東京都出身。小学生でジャニーズ事務所に入所。アイドルグループ『少年隊』のリーダーとして人気を博し、テレビドラマや舞台を中心に俳優としても活躍。1999年に出演した、つかこうへい演出『蒲田行進曲』をきっかけに、舞台演出にも積極的に関わるようになる。2020年12月31日に、43年間在籍したジャニーズ事務所から独立。2021年から同時期に独立した植草克秀とYouTubeを配信し、2022年10月には二人でディナーショーも開催。2022年11月28日、初の著書となる『錦織一清 演出論』(日経BP)を上梓した。
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