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柳森神社の御祭神は、倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ)です。
柳森神社は長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の 佐久間町一帯に植えた柳の森に鎮守 として祀られたのがはじまりとされ、万治2年(1659年)に現在地に移りました。
江戸時代には徳川家より社殿造営の寄進を受けるなどして烏森神社・椙森神社とともに江戸三森の一つとして崇められました。
境内の外側にある石碑には元柳原という文字がみえます。関東大震災までの頃この周辺には柳町、小柳町、元柳原町、向柳原町、柳原河岸など、柳にちなんだ町名があったそうです。
柳の木も堀の土手に移植され、柳の森としたことの起因となる ようです。江戸の名所にもなりました。
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/88
入り口の鳥居をくぐると境内は道路より低くなっています。本殿が鳥居より下にあることを「下り宮」といいます。その降りていく階段の右斜面が富士塚になっていました。登拝はできないタイプの富士塚です。
この富士塚は、関東大震災と戦後の2度、地域の事情で形を崩してしまったという歴史があります。
昭和5年に周辺の富士講によってあらたに富士塚が再建され、このとき石碑の数々は富士塚の周辺に移設あるいは設置されましたが、しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されてしまいました。この時に残された富士塚の石を境内に積み上げて小山を築き、その小山の中に4枚の富士講石碑を設置しなおされたものが現在の石碑郡となります。
柳森神社は1680年(延宝8年)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を祀り、合殿・合祀した経緯から 富士講と深い関わりを持つ場所 だったとか。富士塚は小さくなりましたが、パワーのある小山と感じました。
また、 境内には13個の力石群があり 目を引きます。
江戸時代に若者の間で重量のある石をもちあげて力自慢をするというのが流行ったそうです。明治時代に少し衰退しましたがまた大正時代に盛り上がりを見せました。当時の力士で大関として名を挙げた神田川徳蔵こと飯田徳蔵とその一派が生前使った石の一部で彼らの業績を記念し、後世に伝えるために集められたものだそうです。現在千代田区の有形民俗文化財に指定されています。
https://everywhere.tokyo/yanagimori-shrine/
さて、境内にはいたるところに様々な神様がいらっしゃいます。お狐様や龍様、そしてたぬき様。え?たぬき?あまり他ではみることがない神様です。境内の福寿神は 「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建した といわれています。
しかし、なぜたぬき?その理由が桂昌院の運命にありました。とても面白いのです。ここからは桂昌院のことを少し説明したいと思います。
桂昌院は京都堀川の生まれで、もとは八百屋の娘。通称、玉といいました。父が幼い頃に亡くなり、母親と二人路頭に迷ってしまいますが、玉が10歳の頃、玉の母は武家の名門である本庄家の飯炊き係として職を得ます。その時、妻を亡くしたばかりの本庄家の当主に見初められ後妻に迎えられることになったのです。玉のお母さんはきっとおきれいだったのでしょうね。
八百屋の娘からいきなり武家の娘となった玉。 あまりの生活のちがいに戸惑い、苦労も絶えなかったそうです 。
座り方から挨拶の仕方からたたきこまれました。
その後玉は13歳の時、父から江戸の大奥に行くよう言われます。本庄家が、仕えていた将軍家光の側室にきまり、その 身の回りの世話係として玉が候補にあがった のです。
大奥というのは、誰もが一度は夢見る憧れの世界。しかし厳しい階級社会でもありました。将軍の側近になる女は原則、旗本や御家人の娘に限られていたようです。14歳になっていた玉は大奥生活の中で「部屋子」として一生懸命働いていました。
ある日、 玉は大奥の一切を仕切る最高権力者であった春日局から自分の部屋子になるよう命じられ ます。
そして、側室候補に庭先を歩かせ、将軍にお目通りをするという「御庭拝見」ののち、お玉は家光に気に入られ、将軍の寵愛を受ける「お手付き」となるのでした。お玉17歳の時でした。
お玉はついに家光の子を宿し、20歳のとき男の子を産みます。その子は徳松と名付けられ、幼い頃から飛びぬけて利発でした。家光にはすでに二人の男の子がいたため、徳松の地位は3番目でしたが、家光は父として徳松に告げます。「お前は生まれつき聡明だから学問に重きを置きなさい」
慶安4年(1651年)家光が没し、長兄家綱が11歳で将軍の座につきます。お玉は家光の死により仏門にはいり、桂昌院と名乗るようになります。息子の徳松とともに大奥を離れます。
承応2年、7歳の徳松は綱吉と名を改め、二十五万石の城主となり、ひたすら勉強の日々をおくっていたとか。そして約30年が経ち、桂昌院54歳となった延宝8年(1680年)将軍家綱が死の病にあるという一報を受けます。家綱には世継ぎはいなかったため、次期将軍を綱吉にと命じました。 5代将軍徳川綱吉が誕生した のです!2人は30年の時を経て江戸城に帰ってきました。
桂昌院は大奥の頂点となり権力を握った桂昌院は綱吉ともども社会改革を考えました。 儒教と仏教を重んじる社会を願い 、着実にすすめていきます。
玉という名前と、このエピソードから「玉の輿」という言葉はここから生まれたんだという説もあるようですが、それはこじつけだという説もあるようで、どちらが本当かわかりません。
でも、この玉が、他を抜いて(→たぬき)玉の輿に乗ったということで、その幸運にあやかりたいと大奥の女性たちがこぞってお参りしたというのは真実のようです。
https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=116
さて、もう一人気になった女性がいました。桂昌院を自分の部屋子にして玉の輿の人生に導いたとされる春日局です。どんな人だったのでしょう。
幼名は福。父は明智光秀の重臣齋藤内蔵助利三といい、本能寺の変で明智光秀と共に捕らえられ斬首されます。福は裏切り者の娘として食べる物にも困るような生活になり、幼いころは辛い毎日だったといいます。
はじめ稲葉正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母となり、三千石を賜りました。
家光公のために献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽力しました 。
寛永五年家光公25歳の時疱瘡にかかり、局は東照宮大権現の神前に詣で、「将軍の病が治ったら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祈りました。その効果があってか家光公の病気が回復。そのため局は身の終わるまで針灸薬餌を一切用いませんでした。
寛永6年京都へ上り御所に参内し、春日局の号をいただき、後水尾天皇より天盃を賜り、同九年明正天皇より従二位を賜りました。寛永20年(1643)9月14日65歳永眠。
文京区の麟祥院に春日局のお墓があります。大きくて変わった形をしていました。
特別な人のお墓という雰囲気です。墓石や、その台石には穴があいています。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」と言う春日局の遺言にもとづいて建立したものだそうです。
春日局の墓石に穴が通っていることから、「願いが通る」と伝えられ、また春日局の強運や賢さにあやかろうとひそかに参詣する人が多くあったのだといいます。
https://colorfl.net/kasuganotsubone-matome/
このお店で粟ぜんざいのおいしさに目覚めました。お近くに行った際はぜひ寄ってみてください。
https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131002/13000342/
波乱万丈でありながら当時の女性としての栄光を勝ち取った女性2人のパワースポットをめぐってみました。
大奥をとりしきるというのは当時でいう出世コースだったに違いありませんが、そのために耐える日々があり、犠牲にしてきたこともあったことでしょう。彼女たちは女性という立場を活かしながらも女性だからこその苦労を乗り越えて懸命に生きたのですね。今回はそんな彼女たちのパワーに尊敬の念をいだきながらめぐるコースとなりました。
出典・参考
- 神社内看板
- 千代田区の文化財
余暇プランナー
アイデアや感動に出会いたくて、東京の街をテクテクわくわく巡っております。 運を味方につけて願いを叶えたい!そんな想いから良縁やご利益を授かることができるパワースポットに興味をもちはじめました。大好きな富士塚には、富士山パワーを秘めた神秘的世界と人々の願いがこんな形になったなんて!というおもしろさを感じています。 知れば知るほど興味深いパワースポットの魅力をお伝えしていきます。
【柳森神社とおたぬき様】女性のためのパワースポットの歴史とは?