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https://www.veltra.com/jp/yokka/article/visiting-kyoto-shrines-and-temples-4/?sid=1554
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日本で最も多い宗派は浄土宗・浄土真宗といわれ、 「南無阿弥陀仏」の念仏に集約 されます。鎌倉時代に浄土宗を開いた法然上人を偲び、この地に本山が建てられました。
法然上人は人が成仏し浄土へ行くのに 身分などは関係ない として、当時は穢れていて成仏できないとされていた女性さえ対等に救われると訴えました。
安土桃山時代には 徳川家康の母 、於大の方がここへ葬られ、徳川家の菩提寺としました。徳川将軍代々の墓地がある、東京芝の増上寺も浄土宗です。
徳川家康は知恩院を手厚く保護し、伽藍の整備などを進めました。
知恩院の入り口でまず驚かされるのが、巨大な三解脱門、略して三門です。
2代将軍秀忠によって建てられました。門としては東大寺の南大門と並ぶ 世界最大級の国宝 です。
門を抜けると緩やかな女人坂と階段の男坂があり、登っていきます。
そして、御影堂です。これも巨大です。法然上人の御影、つまり像が安置され、堂内には2000人が入れるといいます。400年前の建築で、国宝です。
堂内は全面的に金箔が貼られた荘厳空間です。西方浄土を表す金の輝きでいっぱいです。
向かって左側の脇壇には、通常非公開の 徳川家康像 が御厨子の中に収まっています。
御影堂の奥には集会堂や庫裏などが密集しています。その中に檜皮葺きの 大方丈と小方丈 があります。大方丈は将軍の公務として、小方丈は将軍の私的な場所として、ともに1641年に3代将軍家光によって建てられました。大方丈は狩野派の障壁画、小方丈は水墨画で知られています。
御影堂の横には、阿弥陀堂があります。3メートル近い阿弥陀さまが祀られており、御影堂より一回り小さい建物ですが、 実はここが本堂 です。浄土宗、浄土真宗においては阿弥陀如来が本尊になります。御影堂が大きく作られていて本堂のように見えますが法要などの行事の際に人を入れるために大きく作られているだけで、本堂は必ず阿弥陀様がいらっしゃる場所になります。
境内の奥へ行くと、法然上人の御廟があります。遺骨が安置されており、境内でもっとも高い場所にあります。
その向かいには勢至堂があります. 1530年に建てられた、 知恩院で最古の建物 です。法然が息を引き取った禅坊の跡に建てられています。
境内の南には、大きな鐘楼があります。ここまで入ってくると、週末でもほとんど観光客はいません。大みそかの除夜の鐘で知られています。梵鐘は高さ3.3メートル、重さはおよそ70トンあり、20人近い人数で鐘を撞きます。
他にも経蔵や宝物殿など数えきれない伽藍が徳川家の栄華と浄土真宗の発展を感じさせます。
境内のお墓の奥へいくと、千姫の墓があります。千姫は2代将軍徳川秀忠の長女、浅井3姉妹の3女お江の娘です。5歳で豊臣家へ嫁ぎ、豊臣秀吉の跡継ぎの秀頼と結婚しました。大坂夏の陣での豊臣家滅亡の際はギリギリで大阪城から救い出されました。
さらにその先には「 濡髪(ぬれがみ)祠 」という小さなお社がひっそり建っています。ここに住んでいたキツネが子どもに化けていたときに髪が濡れていたといいます。濡れた髪が女性の姿をイメージさせることから、祇園町の 舞妓さんたちの信仰 を集め、今日では縁結びの神様「濡髪さん」として親しまれています。
織田信長、豊臣秀吉、最後に徳川家康が天下を丸く収めました。
家康は戦が強いわけではなく、カリスマ性が強いわけでもありませんが、とにかく我慢を続けて最後に力を発揮しました。
我慢しながら、地元である三河の家臣たちとの縁を大切にし、敵だった豊臣方の家臣たちも縁のある者を重用しながら足元を固めていきました。縁の王者、家康に学ぶところは多そうです。
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余暇プランナー
仏像と歴史好きな、社寺建築の仕事をしていたおじさんです。全国の社寺、仏像を見て回り、古代から戦国の時代を空想しています。 空想しすぎて小説を書き、文学賞もらっちゃいました。旅ライターと小説家の2刀流おじさんです。
【京都】これで人間関係を良好に!良縁・恋愛・縁結びの神社仏閣 Part3~徳川編~