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https://www.veltra.com/jp/yokka/article/shrines-and-temples-in-kyoto-with-good-luck-1/?sid=1554
豊臣秀吉という人はつくづく強運の持ち主でした。
まず尾張のくに、現在の愛知県西部すなわち名古屋エリアに産まれたこと。同じエリアに先行する天才・織田信長がいたこと。
そして貧しい農民の家に産まれたからこそ、成り上りたいという強烈な向上心を持ったこと。身分ではなく実力を重視する 信長に見出された こと。
明智光秀が謀反で天下を回してくれたこと、それ以降も様々なタイミングや天気などが秀吉に味方し、気付いたら天下を取っていたのです。最大の幸運は、若いころ 寧々という伴侶に巡り合った ことから始まっています。
そんな秀吉が天下を取った後、京都に巨大な聚楽第を造営する際にこの稲荷神社を作りました。
二条城すぐ近くの千本通りにありましたが、2012年(平成24年)6月に左京区大原に移転しています。
https://syusseinari.or.jp/
秀吉は天下統一後、1595年に 奈良の大仏より大きい大仏 を京都七条に建立しました。それが方広寺です。
しかし、翌年の大地震で被害を受け、その後息子の秀頼が再興します。前面道路がやたらに広くなっているのは大仏殿への 巨大な参道があったことを伺わせます。秀頼によって建てられた大仏はその後火災で焼けてしまいますが、焼け残りの一部を本堂で見ることができます。
本堂より目立つのは巨大な鐘楼堂です。今も釣り下がっている梵鐘は、秀吉の死後、徳川家康が大阪の豊臣秀頼と淀殿に言いがかりをつけたという「国家安康君臣豊楽」と銘文がそのまま残っている、400年前の実物です。
豊国神社の唐門は伏見城の移築で、 京都3大国宝唐門 のひとつです。他は大徳寺と西本願寺の唐門です。
飾り金具や彫刻がかすかに当時の栄華を伝えています。
https://kyoto-design.jp/spot/2836
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=433
秀吉と共に40年連れ添ってきた正室・ねね。ねねも尾張の国に産まれ、当時としては珍しい 恋愛結婚 でした。
秀吉没後は東山の高台寺に隠居しますが、そのすぐ向かいにあるのが園徳院です。ねねはここで静かに息を引き取りました。
ここの三面大黒天は秀吉が守り神としたもので、毘沙門天の面と弁財天の面がついて、合わせて3面となっています。毘沙門天は戦い、武天の神、弁財天はお金、財政です。 大福と武運とお金 の3つがまとめて叶えられるという意味です。そして秀吉とねねはすべてを手に入れました。
周辺には、ねねが晩年の19年間を毎日のように散歩したという ねねの道 、高台寺へ向かう ねねの坂 があります。
https://www.kodaiji.com/entoku-in/
平安時代から1000年間という長い間日本の都だった京都は、戦いの歴史と言ってもいいでしょう。人間同士の戦いだけでなく、人間と疫病、厄災、怨霊なども含めて、人間は神仏に頼り、信仰を形にしてきました。
そして日本人は1000年以上のあいだ、現在に至るまでそれを捨てることなく守り続けてきたことで、わたしたちも当時の人たちの感覚をなんとなくでも感じることができます。
現在の京都の町は秀吉の時代に形作られました。しかし秀吉というのは他の何万という兵隊や農民らの代表というだけで、本当の 主役は名もない庶民 ではないでしょうか。
秀吉ゆかりの場所や神仏、その他の名所を訪れるにしても、その背景にあるのはその時代に生きていた人たち、わたしたちの祖先であり、その人たちに手を合わせて感謝する心を忘れたくないものです。
https://www.veltra.com/jp/yokka/article/shrines-and-temples-in-kyoto-with-good-luck-1/?sid=1554
余暇プランナー
仏像と歴史好きな、社寺建築の仕事をしていたおじさんです。全国の社寺、仏像を見て回り、古代から戦国の時代を空想しています。 空想しすぎて小説を書き、文学賞もらっちゃいました。旅ライターと小説家の2刀流おじさんです。
【京都】負けられない時に訪れたい!勝負運・出世運の神社仏閣~豊臣秀吉編~(後編)