1920年代後半から1930年代初めにかけて、ヨーロッパではイギリスのフラーが発表した機甲戦術理論が大きな注目を集めていた。「1919計画」と名付けられたフラーの理論によれば、まず重装甲大火力の重戦車を集中投入して敵の防御線を破砕し、その上で防衛線の穴から快速戦車を中心とする機動部隊が後方へ進入、一気に戦争の決着をつけるというものだった。

 後に、この理論は電撃戦理論へと発展して行くのだが、それはまだ先のことである。当時は、突破戦の主役となる重戦車、中でもフランスやソビエトでは多砲塔重戦車が大きな注目を集めていた。その他、イギリスのヴィッカース社が開発したインディペンデント重戦車は、各国の戦車開発に大きな影響を与えている。

 極秘裏に戦車の開発を行い、また独自に機甲戦の研究を進めていたドイツでも、やはりフラーの理論に興味を持つものが多く、実際1920年代の戦車開発はその理論にそったものだった。その後、ドイツでは独自の方法論に基づく戦車の開発を始めるが、その一方で大トラクターの発展形である多砲塔戦車の開発にも着手する。

 ヒトラーが政権を握った後の1934年。ドイツ国防軍は新車両(Neubaufahrzeug)との秘匿名称の下に多砲塔戦車の開発に着手し、ラインメタルとクルップの両社に基本計画を提示した。国防軍のプランはインディペンデント重戦車の影響を強く受けたもので、主砲塔の右前方と左後方にそれぞれ1基づつ銃塔を配置し、ほぼ全周に渡って火力を発揮するように考えていた。まず、装甲を持たない試作車両を作ることとなったが、ラインメタルが車体と砲塔の両方を設計、試作したのに対して、クルップは砲塔のみを試作することとなっていた。

 両社とも、その年の内に試作車両、もしくは砲塔が完成し、直ちにテストを受けた。ラインメタルは、既に十分な経験を積んでいた大トラクターをベースに車体を製作、円形の砲塔に主砲と副砲を縦に並べた。それに対し、クルップは各型の溶接砲塔を製作し、主砲と副砲は横に並べていた。両社の違いは主砲塔のみであり、銃塔のデザインも含め、その他に相違点はなかった。

 テストの結果、国防軍はラインメタルの1号車、クルップの2号車共に十分な性能を有していると判定したが、最終的には2号車をベースにした追加試作車両を3両製作している。1935年春に発注された追加試作車両は装甲を持っており、翌36年に完成している。だが、追加試作車両が完成した頃には突破用重戦車の必要性が薄れており、計画を検討した結果、新車両は量産しない事となった。その後まもなく、試作車両は全て退役し、計画そのものも事実上、破棄同然の有り様となっていた。

 新車両は、ドイツ軍が戦車の設計を固める前に試作した1927年の大トラクターを基礎にしているため、大戦に参加したほとんど全てのドイツ軍戦闘車両と全く異なる構造をしている。特に、多数の小転輪とそれらを2個1組にまとめたサスペンション、そして側面の装甲被いは、新車両と1920年代の各種試作戦車にだけ見られる特徴といえるだろう。その他、車体そのものの構造はあまり変わっていないが、前後に銃塔を備えたため、戦闘室の形が少々複雑になっている。

 砲塔はクルップとラインメタルで異なっているが、75ミリ砲と37ミリ砲の連装砲架としたため、どちらも少々大振りのシルエットとなっている。もちろん、主砲、副砲、砲架の全てが新設計だった。クルップの砲塔は弁当箱のようにそっけないデザインだったが、ラインメタルのそれは避弾形始も多少は配慮しており、外観の印象だけで判断するならラインメタル製砲塔が優れているように見える。にもかかわらず、ドイツ軍がクルップ製砲塔にしたということは、外観に現れない要素、例えば生産性や砲塔容積の点で優れていたのだろう。また、ラインメタルの砲架は主、副砲を縦に配置しているために、砲の俯仰や弾薬装填の点で問題が発生しやすかったのかもしれない。この他、試作車両の銃塔は1号戦車のそれと微妙に異なっていたが、追加試作車両の段階になるとほぼ全く同じといってもよいデザインになっている。

 いったん退役した「新車両」だったが、世界大戦中の1940年には現役に復帰することとなった。当時、ドイツは資源確保のためノルウェー侵攻を準備しており、シュレスヴィッヒ・ホルスタインのプトロス演習場ではこの作戦のために第40特別装甲大隊を編成していた。しかし、装備予定だった戦車の生産が間に合わなくなったため、代わりに新車両の追加試作車を倉庫から引っ張り出してきたのだ。

 新車両は追加試作車3両で小隊を編成し、第3中隊に所属していた。とはいえ、第40特別装甲大隊の装備車両は大半が軽戦車だったため、少数でも巨大な多砲塔戦車は注目を集める存在だった。そのためか、新車両小隊は指揮官であるハンザ・ホルツマン中尉の名を取ってホルツマン小隊、あるいは編成地からプトロス小隊と呼ばれていた。また3両とも車体前面に大きな白い象のマークを書き込み、特別な存在であることを強調していた。

 作戦開始当初、第40特別装甲大隊の第3中隊のみがノルウェーに向い、残る2個中隊はデンマークで行動していた。新車両小隊は4月19日にオスロへ上陸し、歩兵とともにエルバラム周辺の戦闘に参加した後、同月20日にはハマーへ向かった。24日にはデンマークから第1と第2中隊が合流した事にともない、第40特別装甲大隊は第340歩兵連隊などとフィッシャー戦闘部隊を構成し、リレハンメル攻略に参加した。

 このように、新車両はノルウェー各地を転戦し、少なくとも1両を戦闘で失ったとされている。その後、損傷車両は修理再生され、少なくとも6月まではノルウェーにとどまっていた。ノルウェー戦以降はフィンランドからルーマニアへ向かい、1941年には東部戦線のドゥビナ河付近で再び実戦参加したらしい。また、資料によってはそこで残る2両を失ったとしているものもあるようだが、それはノルウェー戦に参加した車両ではなく、ドイツにとどまっていた試作車との説もあってややこしい。この他に、本国に帰還した新車両は戦意高揚写真の素材となったり、クルップで突撃砲の研究車両となったとの説もある。

(隔週日曜日に掲載)

名称:ノイバウファールツォイク
乗員:6名
重量:23.41トン
全長:6.60メートル
全幅:2.19メートル
全高:2.98メートル
エンジン出力:360馬力
速力:30.0キロメートル/時
主砲:75ミリ砲
副砲:37ミリ砲
装甲:13〜20ミリ

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ