フジテレビ系『オレたちひょうきん族』の終了後、“お笑い第3世代”が到来した。筆頭格のダウンタウンとウッチャンナンチャンは、1989年4月、同局でスタジオコントの『夢で逢えたら』をスタート。終焉後の91年12月、ダウンタウンは全国ネットで初の冠コント番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』を開始した。

 一方のウンナンは、“夢逢え”と同時進行で90年4月〜9月、『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』を開始。同年10月、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』に改題した。内村光良が、当時は無名だったモデルのちはると、妖怪キャラクター「マモー・ミモー」を流行させたのも話題になった。

 “やらねば”シリーズは、出川哲朗、ちはる、入江雅人などの出世作だが、ウンナンはこの勢いに乗って、フジから日本テレビに鞍替え。“電波少年”シリーズを手がけた「T部長」こと土屋敏男プロデューサーとタッグを組んで、96年4月、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!』をスタートさせた。特筆すべきは、“やらねば”シリーズと同様に、まだ世に出ていない芸能人をスターダムにのし上げた点だ。芸人では、キャイ〜ン、よゐこ。女性タレントでは藤崎奈々子、山川恵里佳ほか多数。また、長期にわたる一大プロジェクトとして、当時は全盛だった“ドキュメントバラエティ”のジャンルを、さらに過酷に、さらにリアリティを追求すべく、「芸能人社交ダンス部」を発足した。

 第1期の初期メンバーは、杉本彩、その相手を務めたローズ南原(南原清隆)、チューリップ天野(キャイ〜ン・天野ひろゆき)、鈴木紗理奈。杉本&南原ペアは、アマチュア競技ダンスJADA1級まで取得した。コンテストに向けて本気で練習を重ね、負傷しながらも予選を突破して、絆を深めあっていく様子は視聴者の胸を熱くし、コンスタントに平均視聴率20%超えをはたした。かつては、ボディコン・イケイケで鳴らした杉本は、同企画で完全にイメージチェンジした格好だ。第2期メンバーは、ブラボー内村(内村)、ビビアン・スーなど。第3期は、千秋、アミーゴウド(キャイ〜ン・ウド鈴木)など。ここでファミリーに加わった千秋が、のちに芸能界を大きく動かすこととなる。

 前身番組『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』内のコントで、テルこと内村が「第2のマモー・ミモー作ってやるダニ」と叫んだことで、テル、千秋、ウドによる音楽ユニット・ポケットビスケッツ(呼称・ポケビ)が誕生。96年4月、パッパラー河合プロデュースによるデビュー曲『Rapturous Blue』を発売。同年9月に発表した第2弾シングル『YELLOW YELLOW HAPPY』は、CDセールスランキングで最高位4位を記録し、まさかの150万枚を突破した。翌97年1月、3作目『Red Angel』も100万枚を突破して、発売元の東芝EMIからゴールドディスクが贈呈された。デビューから青、黄色、赤の“ポケビ3部作”が売れまくった背景には、“社交ダンス部”2期メンバーに大抜擢された、ビビアンの影響が多大にあった。

 台湾出身のアイドルだったビビアンは来日当初、まったくの無名。しかし、南原ふんする南々見狂也、天野ふんする天山ひろゆきとともに、ポケビを倒すためのユニット・ブラックビスケッツを結成すると、ジワジワと人気が着火。97年にファーストシングル『STAMINA』をリリースすると、いきなり105万枚を売るミリオンヒット。翌98年に、セカンドシングル『Timing』を発売すると、まさかの200万枚超えをはたし、ダブルミリオンを達成した。99年のラストシングル『Bye-Bye』まで、通算4枚のシングルをリリースしたが、いずれもオリコンランキングでトップ5圏内に入る大ヒットで、ビビアンは一躍、時の人となった。

 ポケビとブラビの抱き合わせ商法は、当たりに当たりまくって、シングル、アルバム、ビデオ、写真集ともにバカ売れ。観客が押し寄せすぎてフリーライブが中止になったり、日本武道館でのライブが完売するなど、伝説を作った。その集大成として98年末には、『NHK紅白歌合戦』に初出場。96年からおよそ3年にわたって起こった“ウリナリブーム”は、ミリオンヒットシンガーに紅白歌手という称号までプラスされ、その後は緩やかに鎮静していった。

 あれから、およそ20年。現在は南原、内村ともに司会者側に回り、後輩たちの成長を温かく見守っているが、デビューからおよそ30年のあいだで起こしたブームは数知れず。ふたりは、日本演芸に欠くことのできないお笑い創造者なのだ。

(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ