- 週間ランキング
その名は、飯島秀雄(茨城県水戸市出身)。
1964年西ベルリンの国際陸上競技会で100m10秒1(手動時計)を出して日本記録を29年ぶりに塗り替え、その年の東京五輪でメダルが狙えると期待が高まった。しかし本番では準決勝で敗れ、続く1968年メキシコ五輪もケガの影響もあって準決勝で敗退してしまう。ただ、その名は全国に広まり“日本最速男”といえば飯島というのが世間の常識になっていた。
彼の名が再び轟いたのは五輪が終わって間もない秋のこと。なんとプロ野球ドラフト会議で東京オリオンズ(現・千葉ロッテ)が第9位に飯島秀雄を指名したのだ。
経緯は、球団の永田雅一オーナーが飯島の知人を介して話が進んだもので、まさかの「世界初の代走専門選手」指名が現実となった。当時のパ・リーグは、「客席が野球を観ている」と言われるほど客が少ない状態で、永田オーナーも「オリオンズの名物にする」と動員に期待を寄せた。
契約金780万円、年俸180万円、背番号は当時のシーズン盗塁記録85を上回るよう88に決まった。“陸上からプロ野球へ”前代未聞の転身は大ニュースになった。
飯島は五輪後茨城県庁に勤務していたが「足を活かせる仕事がしたい」と焦れていた。そんな時に降って湧いたもので、「気がついたら断れない事態になっていた」と語った。陸上関係者からは叱責も受け、世間から客寄せの猿回しの猿という声も飛んだ。
ただ、飯島は元来明るい性格のポジティブ人間で、走ることが仕事になるとは夢のようなチャンスだったともいえる。
当時の週刊ベースボールの記事にこんなインタビューがあった。
「プロの世界はいいですよ。アマチュアのころは家を出るとき、競技場までの電車賃があるかな、と財布を確認する。腹が減っても、きょうはパンしか食べられないとか、金が少しあるから天丼を食おうとかいう程度。プロになってからは、その心配がない」
まだ日本が貧しかった時代、プロスポーツの世界は別格だったに違いない。
チームメイトと打ち解けるのも早く、グラウンドに出る際は、「さあ、8回の裏1点差で無死1塁、代打飯島!」と実況しながら駆け出すなど、冗談を言っては周囲を笑わせていた。
春のキャンプ中、球団と業務提携をしたロッテからファンにガムが配られた際、飯島は、
「ロッテのガムはいかがですか~!」と売り子さんのように振る舞ってファンを喜ばせたという。
マスコミにもいつも笑顔で対処し、3日に一度はテレビ・ラジオに出演するなど、走る天才は自らの挑戦を楽しんでいるようだった。
飯島の野球経験は中学時代に少しかじっただけだった。足は速くても野球と陸上は違う。リードして、投手のモーションを盗み、牽制があれば帰塁、盗塁を試みればスライディングの技術も必要、一番違うのはスタートで、横を向けた体を反転させて走り出すことだ。キャンプで猛練習を積み、1969年のシーズンは開幕する。
デビューは2試合目の南海(現・福岡ソフトバンク)戦。東京スタジアムは飯島効果で2万人の観客が集まった。通常シーズンの平均観客数が約5千人なので4倍である。
9回裏、3対3の同点、先頭打者がヒットで出塁すると「代走、飯島」がコールされ観客はドッと湧いた。
南海の捕手は球界日本一の野村克也である。野村は「初球は走らないだろう」と思っていた。
彼のロケットスタートを活かすため、監督は「行けると思ったら行け」とノーサインだった。
一球目、打者が送りバントの構えをしたのを見て飯島は中途半端に飛び出してしまう。打者はバットを引いて野村が球を受けた。飯島はこのタイミングでスタートしてしまった。
ところがこれで二遊間のベースカバーが遅れ、送球した球はセンターへ、飯島は三塁へ豪快なヘッドスライディングで到達。一瞬にして無死三塁にチャンスが広がった。すると一死後、ヒットでサヨナラのホームを踏んだのだ。
ヒーローインタビューは、サヨナラヒットを打った打者ではなくホームを踏んだ飯島が呼ばれた。
「最高の場面で使ってもらって初盗塁ができた。チームもサヨナラ勝ちした。いつでも走れるようにもっと練習したい」
観客は拍手喝采、飯島は一躍スター選手となった。
センセーショナルなデビューに各球団は飯島の足を警戒。飯島が代走に出ると、打者への警戒が薄れたか打率が、,420に跳ね上がった。観客動員も前年比から倍の1万人に急上昇した。
飯島秀雄の通算成績は、3年間で出場117試合、盗塁はわずか23個(失敗17個、牽制死5、46得点)だった。選手登録上は外野手だったが、一軍の公式戦では打席にも守備にも一度もつくことなく引退する。
思ったほどの活躍ができなかった飯島は、スタートの難しさを挙げた「陸上はパンという合図を待ってスタートするが、野球は投手を目で見てタイミングを測らなければならないのが難しかった」。
足の速さだけなら歴代屈指の選手だったかもしれない。でも野球の走塁・盗塁の技術はやはり経験不足が仇となってしまった。飯島は引退から1年はコーチに就任したが翌年球界から退く。
記録より記憶に残る選手とよく言われるが、代走だけで100試合以上に出場した完全なる「代走屋」は今でも飯島秀雄ただ一人である。
現在は、茨城県で「飯島運動具店」を営む飯島秀雄さん(75)。
水戸市の陸協に尽力し、1991年の世界陸上東京大会で男子100mのスターターを務めた。来年2020年東京五輪の100mで、もしかしたらかつての代走スター&日本一スプリンターが放つ号砲が聞けるかもしれない。