今回はシロクマさんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。

「日本スゴイ」や「ネトウヨ」にみる、アイデンティティの間隙(シロクマの屑籠)

 

大人ならではのアイデンティティ問題——「中年の危機」にどう対応すべきか
 
リンク先はBLOGOSさん向けの書き下ろし記事です。拙著『何者かになりたい』の後半章に関連した、中年期~老年期のアイデンティティの話題を記しています。BLOGOS編集部さんから「中年の危機」に重心を置いて欲しいとリクエストいただいたので、そのような内容となっています。ご関心ある人は読んでみてください。
 
ところで、リンク先の文章のなかで私は「日本スゴイ」について触れました。
 

それでも、この問題で精神医療の助けを借りなければならない人は全体の一部だ。実際には、多くの中年や高齢者が自分のアイデンティティを巧みにメンテナンスし、年を取ってからも何者かで居続けている。なかにはアイデンティティの空白を「日本スゴイ」的な動画配信のシンパになることで埋めあわせてしまう人もいるが、そうしたことも含め、人は自分のアイデンティティの空白をどうにかするためには骨惜しみしないし、それで案外なんとかなっている、ともいえる。
https://blogos.com/article/546687/

これですね。
 
「何者かになりたい」「何者にもなれない」と思い悩む若者とはまた別に、中年や高齢者にもアイデンティティの危機が起こることがあり、リタイアメントや死別などによってアイデンティティの構成要素を(一部)失ってしまうことなら頻繁にあります。仕事、人間関係、家庭、趣味、なんでもいいですが、それらがアイデンティティの構成要素として機能しなくなった時、人はそのまま空白に耐えるより、新たにアイデンティティの構成要素となりそうなものを取り入れ、メンテナンスしようとするものです。
 
思春期に「何者にもなれない」と悩んだことのある人ならわかると思うんですが、アイデンティティの構成要素が足りてない状態では気持ちに余裕が生まれず、心が飢えがちです。そういう状態でアイデンティティの構成要素として有望なものに出会ってしまった時、これをスルーするのは簡単ではありません。アイデンティティの構成要素が足りてない状態で、これぞというオンラインサロンやソーシャルゲームに出会ってしまった人は、深入りしやすいのでした。
 
で、「日本スゴイ」の話。
 
コンテンツとしての「日本スゴイ」はオンラインサロンやソーシャルゲームに比べ、経済的リスクは少ないようにみえます。テレビを持っている人には無料と言ってもいいでしょう。
 
しかも「日本スゴイ」には圧倒的な間口の広さがあります。日本のことがだいたい好きで、日本が優れた国であって欲しいと願ってさえいれば、誰もが「日本スゴイ」を介して「スゴイ日本に生きている日本人」というアイデンティティを獲得……というより自分のアイデンティティの構成要素の一端に日本人ってのがあったことを指差し確認できるのです。
 
「日本人なんて、アイデンティティとして希薄すぎるじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。そうかもしれませんね。ひとことで日本といっても広いわけですし、日本人なんていくらでもいるわけですから。
 
でも逆に考えれば、日本人というアイデンティティほど簡単なものもありません。少なくとも日本国籍を持っていれば日本人には違いないのです。日本人であることに疎外感をおぼえる人、日本が憎くてしようがない人にとって、日本人であることはアイデンティティの構成要素たり得ませんが、日本人であることを誇りに感じている人や日本が好きな人には、日本人であることもアイデンティティの構成要素たり得ます。
 
アイデンティティというと、かならず個人的なものだと思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。個人的な地位・名誉・アチーブメントがアイデンティティになるだけでなく、特定の集団に所属していること・組織の一員であること・居場所が実感できる状況であること、等々もアイデンティティの構成要素たり得ます。たとえば昭和時代の愛社精神豊かなサラリーマンは、個人としては業績や肩書きがふるわなくても、「○○社の社員としての自分」という実感がアイデンティティの大きな割合を占めたことでしょう。ちょっと昔の「はてな村」というネットコミュニティにしてもそうです。「はてな村」でそれほど目立っていなかった人でも、「はてな村」というネットコミュニティに自分が所属しているという(肯定的な)自負や自覚がある場合には、「はてな村」がアイデンティティの一部を担うことになります。
 
愛社精神豊かなサラリーマンにとっての会社や「はてな村」が大好きなはてなユーザーにとっての「はてな村」に比べれば、日本という集団・組織は広く薄いので、「日本スゴイ」をとおして再確認できる日本人というアイデンティティは”原則として”薄いものでしかありません。
 
とはいえ無いよりずっと良いし、多くの人が利用可能なアイデンティティではあるのです。たとえば職場や家庭や肩書きやコミュニティといったアイデンティティの構成要素がどれもズタボロになってしまった人でも、再確認さえしてみれば日本人というアイデンティティが手許に残っているのです。「日本スゴイ」は、そんな手許にあったはずの日本人というアイデンティティを気持ち良く発掘し、足りないアイデンティティの構成要素を補う一助として利用できるコンテンツではないでしょうか。

(補足:でもって、日本人というアイデンティティが要らないと感じている人々からみると「気に入らない人々だ」とうつることでしょう。人は、自分自身がアイデンティティを感じることのない組織や集団にアイデンティティを感じ取っている他人を見る時、ポジティブな感情をなかなか持てないものですから)
 
 

カジュアルな「ネトウヨ」に問題はあるか

 
そんなわけで、私は「日本スゴイ」系のコンテンツを好んでいる人には極端な愛国者はそれほどいなくて、大半は、アイデンティティの構成要素の間隙を埋めたいニーズを充たしているだけじゃないかと思っています。
 
同じことはいわゆる「ネトウヨ」についても言えます。
 
「ネトウヨ」とは、掴みどころのない言葉ですが、少なくとも「ネトウヨ」には従来型の(そして典型的な)主義者とは違うという含意があります。どうやら、オンラインコミュニケーションの一部に愛国的・右派的・保守的な発言がみられる人もまとめて「ネトウヨ」と呼ばれているようですね。
 
そうした「ネトウヨ」な人々のなかにも、SNSなどをとおしてカジュアルにアイデンティティの一部を補完している人が結構いるようにみえます。
 
オンライン上の「ネトウヨ」な人々は、オフラインで「日本スゴイ」系の番組を見ている人より、いくらかアクティブです。日本や日本人について肯定的なツイートを書いたり、いいねやリツイートで共有することでアイデンティティの構成要素としての日本・日本人を指差し確認しているようにみえます。だからといって、彼らが四六時中日本を愛するツイートをしているわけではありません。色々な人から「ネトウヨ」認定されている人のツイートを眺めてさえ、全ツイートの1/5以下、たいていは1/10以下ぐらいのものでしょうか。多彩なツイートからは、「ネトウヨ」認定されている人も、日本・日本人以外にさまざまなアイデンティティの構成要素を持っていることがうかがえます。
  
こうしたカジュアルな「ネトウヨ」と、それをとおしたアイデンティティの指差し確認に問題はあるでしょうか。「ネトウヨ」の正反対の人からすれば大問題でしょうけど、私も以前に「ネトウヨだ」と言われたことがあったので、よくわかりません。でも、これって大丈夫なのかな? と私なりに思うところもあります。三つ挙げてみましょう。
 
1.ひとつは、一人ひとりにはカジュアルなアイデンティティの指差し確認でも、積もり積もれば言霊として大きくなる点。
「ネトウヨ」と呼ばれる人の大半がカジュアルでも、リツイートやシェアによって広がる言葉は言霊として膨張し、政治の重みを宿すことがあります。もちろんこれは「ネトウヨ」以外でも同じでしょう。ところがそれに自覚的な人は、あまりいません。自覚がある人々によって言霊が膨張するのも怖いですが、自覚がない人々によって言霊が膨張するのも、それはそれで怖いものです。
 
でもって政治的なリーダー格の人はそうしたことも承知のうえで、カジュアルにアイデンティティの指差し確認をしている人とその願望を動員しているのでしょうね。
 
2.もうひとつは、アイデンティティがとことん足りない人には結局猛毒になりかねない点。
さきほど私は「日本のメンバーシップの一員だと指差し確認にして獲得できるアイデンティティは”原則として”薄いものでしかない」と書きましたが、これは、積極的に活動することで濃縮可能です。アイデンティティの構成要素がすごく乏しい人が活動をとおして日本・日本人としてのアイデンティティを再確認した時、それがアイデンティティの一番大きな構成要素になってしまうことがあります。ちょうど、自分にはオンラインゲーム以外にないと思っている人がオンラインゲームをアイデンティティの一番大きな構成要素にしてしまい、抜け出せなくなってしまうのと同じことが「ネトウヨ」にだって起こり得ます。「ネトウヨ」の正反対の人たちにだって起こるでしょう。
 
そうやって全精力を注ぎ込んで活動するようになった「ネトウヨ」は、傍から見れば生粋の主義者とほとんど変わりません。いや、案外主義者とはそういうものなのでしょうか? なんにせよ、深入りしてしまうリスクはここにもあるでしょう。
 
3.みっつめは、そうした「ネトウヨ」をとおしてアイデンティティの指差し確認する人が増えたってことは、アイデンティティを獲得できる手段が社会に足りなくなっていることや、アイデンティティを希求する余力が乏しくなっていることを反映していないか、という点。※。

※もちろん「ネトウヨ」の増加がアイデンティティを実感しにくい社会になった主因だとここで言いたいわけではないのは断っておきます。たとえば東アジアにおける政治的緊張の高まりだって、大きな要因のひとつでしょう

 

人的流動性が高まり、替えのきく匿名的な仕事が増えれば、そこからアイデンティティを実感・獲得するのは難しくなります。旧来の地域や共同体が希薄になれば、集団をとおしてアイデンティティを獲得するのも難しくなるでしょう。もちろん今も、匿名的ではない仕事を獲得する道や、旧来の地域や共同体にかわる繋がりを獲得する道もあるにはありますが、それらは学力やコミュニケーション能力の競争に勝ち抜かなければ得られないものでもあります。地元に生まれ、地元の高校を出て、地元の経済圏で働く人だって例外ではありません──いまどきの地元の人的繋がりを、無条件で所属できるものだと私は感じていません。学校という名の予選があり、そこからセレクションが働いています。学校という名の予選で疎外されてしまった人が大都市の大学などに進学できるならまだいいですが、そうでない場合、アイデンティティの構成要素の求め先は非常に限られてしまうでしょう。
 
そうした社会状況のなかで、どこにもアイデンティティの獲得先が見いだせない人が生まれてくるのは必定ですし、オンラインサロンやソーシャルゲームといった、アイデンティティを求める動機を利用したビジネスが盛んになるのもうべなるかな。もし、「ネトウヨ」をはじめ、ネット上の政治的言説がアイデンティティの獲得先が見出しにくい人の居場所になることが問題だとしたら、個々の政治的言説の是非だけでなく、アイデンティティの獲得先が見出しにくくなった社会や、アイデンティティの椅子取りゲームで敗者が発生しやすく、しかも彼らのアイデンティティの獲得先について一顧だにしない社会にも問題があるように思います。
 

 

どうにもならない。でも問題はそこにある

 
まあ、こうやって考えたところでどうにもなりませんし、なるようにしかなりませんが。
 
アイデンティティの構成要素が足りない人が、どんどん「ネトウヨ」(やその正反対)に染まっていく社会って、いったいどうなっちゃうんでしょう? アメリカのトランプ前大統領みたいな人が現れたりするんでしょうか。それともドイツのチョビ髭伍長みたいな人が支持を集めてしまうんでしょうか。
 
未来のことはわかりません。でも、「ネトウヨ」や「日本スゴイ」に限らず、今の世の中の景色のある部分は、アイデンティティの獲得先がなかなかに難しい社会、ひいては「何者にもなれない」社会とそれなり結びついているでしょう。個人の心理的充足の問題とて、積もり積もれば政治も含めた社会の色々な領域に影響し、影を落とすのだとしたら、社会を主導する人々はいったい何をすべきなのでしょうね。

「何者かになりたい Kindle版」2021年06月12日 『amazon.co.jp』
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作者:熊代亨
イースト・プレス

 
執筆: この記事はシロクマさんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。

「「日本スゴイ」や「ネトウヨ」にみる、アイデンティティの間隙」2021年7月2日
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20210702/1625211000

寄稿いただいた記事は2021年7月18日時点のものです。

情報提供元: ガジェット通信
記事名:「 「日本スゴイ」や「ネトウヨ」にみる、アイデンティティの間隙(シロクマの屑籠)