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さて、六条院の秋から時間が少し巻き戻り、場所は初夏の宇治の山中。雨のそぼ降る山道を行く僧侶の一行がありました。彼は横川の僧都と言って、帝や中宮の要請で宮中での加持祈祷を行ったりすることもある大変な高僧です。彼には80を過ぎた高齢のお母さんと、50代の妹が居て、二人とも出家しています。
僧都は普段、比叡山で修行を積み、母と妹は近くの小野の里で暮らしていますが、たまたまふたりが初瀬詣で(奈良の長谷寺参詣)にいくというので、僧都は自分の最も信頼できる弟子の阿闍梨(あじゃり)をつけてやり、ふたりを送り出しました。
ところが、無事にお参りが済んで帰る途中、80過ぎのお母さんが体調を崩してしまいます。ひとまず近くの宇治で休憩を取りましたが、なかなか良くならない。ついにはSOSが僧都に届き、「もういい年だから本当に死んでしまうかも」と、彼も弟子たちと慌てて駆けつけました。
困ったのは宿の主人です。当時は誰かが死ねばその場も、居合わせた人も死の穢れに触れてしまう。少なくとも一か月は慎まないといけません。「私はこれから御嶽精進(奈良の吉野の金峯山寺参詣)を予定しているんですけど……」。せっかくのお参りの予定をパーにするのも申し訳ないので、僧都たちは仕方なく、別な宿を探し歩いているところでした。
たどり着いたのは“宇治の院”。ここはかつて朱雀院の別荘でしたが、現在は公的な宿泊所として機能しています。ひどく荒れてはいるものの、広くて、他に利用者もおらず気兼ねしなくて良さそう。留守番をしていた老人に話を通し、一行は敷地内をパトロールします。
「気味が悪いな。みな、経を読め」。下っ端の坊主に松明を掲げさせ、一行が建物の裏に回ると、森かと見まごうような大木の下に、なにか白いものが……。「あれは何だ?」灯をかざすと、座り込んだ人のように見えます。
「化け狐め! この野郎、正体を暴いてくれる」と坊主、「やめろ、悪霊だから近寄るな」という阿闍梨。よくよく見ると、長くツヤツヤした髪をして、激しく泣いている女のようです。
僧都は「狐が化けて出るなどと言うが、私は60年ほど生きてきて、未だにそんなものを見たことがない。どれ」。印を組んで真言を唱えたりしてみますが、姿が狐に変わったり、なにか別のものに变化する気配はありません。気づけば2時間ほどが経過し、夜が明けようとしています。2時間は長い!
「どう見てもこれは人間の女だ。物の怪などではなかろう。まだ生きているようだが、もしかすると棄てられた死人が生き返ったりしたのかもしれぬ」と僧都。しかし弟子は「誰がこの敷地内に死体を捨てたりするでしょう。きっと狐や木霊が人をかどわかして来たに違いありません」。
事情を聞くため、弟子は宿泊の支度をしていた先程の番人を呼んできました。老人は驚く様子もなく「ああ、これは狐がやらかしおったのですわ。この木の下では時々こないなことがありますわな。一昨年の秋も、2歳の子供をさらってきおったが、わしらは慣れとりますけ」。
「その子は死んだのか?」「いや、無事です。狐いうんは時々こんな風に人を脅かしよるんですが、別に大したことはありまへん」。
ならばやはり狐か。怖いもの知らずの坊主は白い女に近寄り「鬼か神か狐か木霊か! ここにおわすは比叡の横川の僧都なるぞ! 正体を現せ!名を名乗れ!!」と、袖を引っ張ると、女は顔を引っ込めてますます激しく泣き出しました。
「聞き分けのない奴だ。顔を隠そうったってそうはいかん」と、坊主がさらに強く引っ張ると、彼女は力なく打つ伏してオンオン泣くばかり。この坊主は勇敢ですが、一瞬(もしのっぺらぼうだったらどうしよう!?)とも思っています。やっぱりちょっと怖いらしい。
世にも奇妙な出来事に、一行はどうしたものかと考えあぐね、敷地の外に棄ててしまう案も出ます。しかし僧都はこういいました。
「やはりこれは正真正銘、人間の娘だ。死にかけた人間を放っておくのはもってのほか。たとえ魚であれ、鹿であれ、捕らえられて死にかけているのを見過ごすのはとても悲しいことである。
まして人間の命は儚いもの。たとえ余命が短くとも、その1日、2日を惜しまぬことがあるだろうか。なにか魔物に取り憑かれたり、人に棄てられたり、あるいは悪しき陰謀のためにこういった悲惨な目に遭った者であれ、御仏は必ず彼らをお救いになられる。
せっかくだから薬などを飲ませて介抱してみよう。それでダメなら、それも御仏の思し召しということだ」。高僧の名に恥じぬ立派な志。ちょっと感動しますね。
ところが、弟子たちの反応はそれぞれで「こんな死にかけの、得体のしれない者を病人のそばに置くなんて」という者もあれば「いやいや、たとえ何だろうと生きているのには違いない。雨がひどくなりそうだから、あのまま放っておくのはやはり可愛そうだ」という者も。
かくして、謎の女は建物の人目につかない所で寝かされることになりました。
しばらくして、僧都の母と妹がこちらへ到着。母君はたいそう苦しがっていましたが、次第に容態が落ち着きました。一段落した所で、僧都は「ところで、さっきの人はどうなった?」。
不思議に思った妹尼は「何かあったのですか?」。かくかくしかじか、事の次第を話すと、妹は急に血相を変えて「早くその方に会わせて!」。
妹尼が急いで行くと、誰もいない部屋の中に若い女が放置してありました。とても若くて可愛らしい顔立ちで、白い綾のひと重ねに、紅の袴を履いています。素晴らしい薫香が辺りにたち込めて、限りなく上品です。
「ああ、このひとです。私、初瀬で夢を見ましたの。亡くなった娘が帰ってくる夢です。あれは本当だったんだわ、ああ……!」
実は、妹尼は結婚したばかりの若い娘に先立たれ、出家したのでした。妹尼は早速自分の女房たちに手伝わせ、彼女の看病に勤しみます。発見当時の不気味な様子を知らない女達は、怖がりもせず手当をしました。
まるで死んだようになっていた娘は、人の気配に気づいたのか、わずかに目をあけました。「ねえ、あなた。どうしてこんな所にいらっしゃるの? 何か言ってちょうだい」と妹尼が問いかけますが、何が何やらわからない様子。薬湯を口に流し込もうとしますが、とにかく衰弱が激しく、見込みは薄そうです。
「せっかく娘の生まれ変わりと思える人に出会えたのに。また目の前で失う悲しみを味合わなくてはならないの?」もはや妹尼はお母さんそっちのけで、この謎の娘の看病に必死でした。
妹尼と女房たちは弱った娘を死なせまいと頑張ります。知らない人だけど、とても美しく可愛らしくて、死なせてしまうには本当に惜しい。着ているものも上等だし、卑しい身分の人とも思われないのに、どうしてこんな場違いな山奥にいたのだろう? あれこれ想像を巡らせます。
(もしかして悪い継母などに憎まれて、病気になって棄てられでもしたのかしら? ……もしや体に大きな傷や、良くないところがあるのかしら?)そう思って調べてみますが、特に何もなく、ただ美しいばかりです。
娘は時々、目を動かしてはとめどなく涙を流します。「おかわいそうに。仏様が死んだ娘の代わりにあなたを授けてくださったと思って、こうしてお世話していますのに、その甲斐がなければかえって悲しいだけでしょう。一体あなたはどなたなの? 何か言ってちょうだい」。
妹尼の問いかけに、娘はようやっとのことで「……たとえ命が助かっても、私は生きる価値のない人間です……誰にも知らせないで……夜に……川に投げ棄てて下さい……」。
「ああ、せっかく物を言ったと思ったら、そんな悲しいことを! 何故そんなことを仰るの? どうしてあんな場所にいらしたの?」
娘はそれ以上何も答えません。どこにも悪いところのない若く美しい女が、何故こんな悲しいことを言うのか。やはり人の心を惑わすために化けた魔物か何かなのか。疑問のままに、2日間が過ぎました。
僧都一行が来ていると言うので、以前彼に仕えていた近所の者が挨拶にきました。「実は、故・八の宮さまの姫君で、薫の右大将さまがお通いになっていた方が急に亡くなられて大変だったんです。それで、昨日はこちらにお伺いできませんでした」。
「そういえばこちらからも葬送の火は見えたが、すぐに消えてしまったなあ」と言うと、「わざわざ簡略になさったそうで」。死穢に触れたというので、彼は邸内に上がらず立ち話しで帰っていきました。
「薫の右大将さまに愛された故・八の宮さまの姫君、というのは、確かもう数年前に亡くなられたのじゃなかったか。今の話は一体、誰を指して言っていたのだろう? まさか、あのご高潔な薫の君が浮気などということはないだろうし……」
「この娘さんは、そうした高貴の人の魂を鬼が奪って連れてでもきたのかしら。生きているとも思えず、危なっかしい様子だわ」。
事情が飲み込めぬ一行はいぶかしがりながらも、大尼君の様子が良くなったので帰路を急ぐことにしました。謎の娘はまだかなり弱っていて、道中が心配です。妹尼は「誰かがこの人を探しにくるかもしれない」とも思いましたが、置いてもいけず、この娘と一緒の牛車に乗り、途中途中無理やり車を止めては薬を飲ませて、必死の看病を続けました。
余談ですが、牛車は大きな車輪が車体の左右に一つずつついている二輪車です。その為非常に不安定で、中はよく揺れたといいます。都大路など道が広く整備されたところならともかく、山道では車酔いもひどかったはず。中の君も宇治から京への道中で気分が悪くなってしまいましたが、病人を乗せての移動は相当困難だったことでしょう。
「途中で休憩する場所を考えればよかった」と言いつつ、一行はなんとか夜更け過ぎに、比叡山の麓、小野の坂本という所へ帰り着きます。小野といえば、以前朱雀院の女二の宮(現在は夕霧の妻)が母の御息所と籠もっていた山荘がありましたが、そこよりも奥まった、山際の庵でした。
80過ぎのお母さんは旅の疲れがでたものの、日に日に良くなったので、僧都も比叡山に帰りました。しかし娘の方は依然としてぐったりと力なく、起き上がることも出来ないまま。「川に流して」と言ったきり、ものも言いません。
「やっぱり助からないのかしら……」。妹尼は気が気でなく、かといって諦めてしまうこともできず、この娘の看病を続けます。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
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(執筆者: 相澤マイコ)