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生きて薫と結ばれるより、いい印象を残して死にたいと願った大君は、そのとおりに亡くなりました。眼の前で愛する人を失った事に呆然としながら、まだ薫は現実を受け入れられません。
こんなことは嘘だ、僕は悪い夢を見ているのではないか――。そう思いながら灯を掲げて見る大君は生きているときと何も変わらず、お人形のように可愛らしく眠っているだけに見えます。
悲しみのあまり(セミの抜け殻のように、この亡骸をずっと保存しておくことができたらいいのに)と危ない発想にかられる薫。(御仏よ、私に俗世を捨てよと仰るのなら、もっと幻滅するような、おぞましい姿を見せつけて下さい)。
薫はそう仏に祈りますが、大君は物言わぬまま美しく伏しているだけ。このままでは悲しみが増すだけだと思った薫は(いっそ、ひと思いに火葬を)と、遺体を女房たちに運び出させます。その時、髪からさっと香った匂いが、まるで生きているときと同じなのも余計に悲しいことでした。
薫は火葬場への行き帰りもフラフラになりながら、大君を見送ります。悲しみのあまり茫然自失した様子は、源氏が若き日に夕顔を見送った時の落馬するほどの落胆や、晩年の紫の上の葬儀の時の絶望感を彷彿とさせます。
薫は葬儀が終わった後も帰京しようとはせず、ただひたすら山荘に籠もり続けました。
薫と大君という似た者同士のカップルはこうして引き裂かれました。匂宮と中の君の関係は、今まで数多く登場したこの時代の貴族の男女の典型的なパターンであったのに対し、精神的な絆に重点を置き、理想を求めてなんとか関係を作り上げていこうと努力したのが薫と大君であったと言えます。
しかし、薫はそれでも「最終的には世間一般の言う結婚がしたい、いつかは心身ともに結ばれたい」と思っていたのに反し、大君は頑なに「結婚という形は絶対に取りたくない。肉体関係を持たないでこそ永遠の愛は守られる」と主張していました。それが悲劇の始まりでした。
ただ、それだからといって、どうして大君は弱って死ななくてはいけなかったのか?妹の将来を案じたからと言ってそこまでにならなくてもよかったんじゃないのか。そして願いは叶ったものの、果たして彼女は本当に満足だったのか?
最後までモヤモヤしたものがつきまとい続けた二人の恋路について、吉本隆明は著書『源氏物語論』の中でこのように述べています。
薫と大姫君の二人がほんとにやっているのは、まだ始まりもしないのに、もう終わってしまったじぶんたちの愛恋の想起なのだ。追憶したいのはこの世の無常や、月や花のような季節の風物ではない。ほんとはそういう仮装をとった喪失の愛恋だといっていい。(中略)
二人に恋人らしい振る舞いができるようになるのは、大姫君が衰弱したあげく、死の床に臥すようになり、薫が宇治の山荘にこもって、大姫君の看病に心おきなく専念すると言った、すでに愛恋が可能でなくなった場面だ。二人の特異なエロスは死の病床ではじめて、その観念的な憧憬を解き放つことができている。だがそれはエロスの死、あるいは死のエロスともいうべき病的な情動なのだ。(中略)
この大姫君の死の床の場面を叙する語り手の背後には、エロスの死あるいは死のエロスに酔ったような薫の表情が看取されるようにおもえる。
先のことはとにかく一緒になろうという、性的な衝動を含めた若さ、情熱。吉本隆明の言葉を借りればそれが『エロス』ということになるかと思いますが、ふたりの間には最初から、そういった躍動感、パッションが不足していた。
ふたりの関係を変えるチャンスは、薫が大君に迫ったあの夜だったことは確かです。でもどうしてもそれができなかった薫。そして、世間から隔絶された環境で、浮世離れした父のもとに育ったとはいえ、初恋にもかかわらずあまりにも男女の愛に絶望しきっていた大君。大君の絶望は、今まで登場したヒロインたちが、さんざん辛酸を嘗め尽くした後に得たエッセンスとも言うべき濃さでした。
一方、姉同様にまったくの世間知らずで、男女のことなど微塵もわからなかった中の君は、匂宮と結ばれた後に辛い境遇に陥りますが、いつもどこかでは「あんなに固く誓ってくださったのだから、きっとこのままではない」と彼を信じています。姉との性格の違いもあるでしょうが、彼にはあり余る(性的なものを含む)生きたエネルギーがあり、それが彼女にも燃え移って、まだ残っていたとも言えそうです。
しかし長々と時間をかけながらも、薫は大君にそのような気持ちを抱かせることはできなかったし、大君も「結婚してみてもいいかも」とは思い至れなかった。そのあたりの心理について、吉本隆明はこのように述べます。
そもそも中姫君が不幸になってゆくのは、じぶんが中姫君にひとなみに男女の幸せを得させたいと発想したからだ。大姫君がそう思いこんで衰弱していくというのは納得し難い。大姫君がじぶんでどう思いこもうと、語り手がどう語ろうと、大姫君が衰弱してゆくのはそんな理由からではない。薫が大姫君に愛を得たいとうちあけ、しかもいつでもその機会があるのに決して思いを遂げようとしない態度に、大姫君は潜在的な意識のところでじれたのではないか。(中略)
大姫君は薫を世の貴族の男たちとちがって、無理にじぶんを抱きふせてしまわない立派な男だとおもったりする。だがほんとは潜在する意識の底で、薫のこの態度に絶望して、じりじりと衰弱していったのではないのか。薫の中将は、いかにも大姫君を愛し思うようにいい寄っている。だがほんとの薫の態度は、じぶんはあなたとの愛を遂げるのは重荷だと、ひそかに告白しているにひとしいのではないのか。(吉本隆明『源氏物語論』より)
薫の特異な生い立ちと、今まで女性に対して抱いていた恐怖感や嫌悪感。それらが潜在的に大君へのアタックにブレーキをかけていたとしても何ら不思議ではありません。実際に結婚して妻となったとき、彼女は憧れの人から現実世界の人になる。そうすれば大君の言う「いつか幻滅して、倦怠する」未来も十分にあり得ることでしょう。大君がそれを恐れたように、薫もどこかでそう思ったのかもわからない。
彼が一線を越えられなかった点にどうしても言い訳がましさを感じ「仮に幻滅や倦怠の未来があったとしても、君と一緒にいたいんだ」という覚悟が足らないように思えるのも、吉本氏の言葉を借りれば「あなたとの愛を遂げるのは重荷」と、暗に言っているということになるのでしょう。大君が絶望して死んでいくのもしょうがない気がします。
生きていることは動くこと、そこに活動するエネルギーがあること。そういう意味で、ふたりの恋は最初から死んでいた。死ねば年を取らないように、ふたりの求めた愛はいわば“ゾンビ的な愛”だったとも言えるでしょう。先のことはわからない、無常のこの世で成就する生者の結婚や恋や愛ではなかったことは確かです。
そう思えば、彼女が死んでいくと知って初めて、それこそ”イキイキと”看護を始め、彼女の遺体をうっとりと眺めている薫の異常さも、彼がもともと”生きた者”との恋愛に興味がなかったと思えば、いくらか納得が行く気がするのですが、いかがでしょうか。
宇治から出ようとしない薫の嘆きに共感し、京からも帝を始め続々と弔問が訪れます。匂宮からも頻繁にお見舞いがありますが、大君が最後まで宮の不実を恨んで死んでいったと思うと残念な限り。中の君はと言えば、正体もなく泣き伏せって、こちらはこちらで死んだ人のようです。
中の君や女房らは大君の喪に服して濃い墨染の喪服を来ていますが、真に夫となれなかった薫には、喪服を着る資格がありません。そのこともまた悲しく、薫もこの機会にやはり出家しようと思いますが、ひとり残される母・女三の宮の事を思うとそうもいかない。
同時に、独りぼっちになってしまった中の君については「大君の言う通り、やはり彼女と結婚していればよかった。大君がいる間はそんな気になれなかったが、妹を妻として一緒に過ごせば気持ちが慰められただろうに」。
薫はそう思い、これからは残された中の君を何くれなくお世話しようと思いますが、本人は(全て自分の至らなさのせい。お父様にもお姉さまにもご心配をおかけした挙げ句、こんなことに……)と悔やんでいるので、薫と会って話そうとはしません。
(素直できっぱりした、気高さのある方だ。でも大君の、しっとりとたおやかな思慮深さという点は見られない……)と、薫は何かにつけ姉妹を比べずにはいられません。
無情に時は過ぎていき、すでに12月。薫は雪と氷に閉ざされた山の景色を見ても、女房たちと話しても大君を想ってばかり。これは源氏が紫の上を亡くした後とそっくり。そして(結局は自分の行動が彼女を死に追いやった)と後悔するのもまた、悲しいほどそっくりです。
朝な夕なに念仏を唱え、寝たとも思えず朝を迎える――。そんな日々のある早朝、何やらざわざわと騒がしい気配が。次第に、大勢の人の声や馬のいななきまで聞こえてきました。
「誰がこんな吹雪の夜中に」と僧侶たちも驚いて見ていると、それはなんと匂宮でした。まだ喪中だとわかりつつも、どうしてもどうしても中の君のことが気がかりでたまらず、吹雪でビショビショになりながら山道を来たらしい。
しかし中の君は夫に逢う気がしませんでした。こんなひどい天気の中をはるばる来てくれたなら、普通ならよくぞ来てくれたと思うところですが、姉は彼の不実を恨んで死んでいったのに、今ごろ来てくれた所で何になるの!と……。久々の再会は波乱の予感ですが、さあ、どうなる?
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
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