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今回はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。
冷戦時代、宇宙開発と言えばアメリカとソ連の2大国が推進したものというイメージが強くありますが、中東の小国レバノンは、1960年代に独自に宇宙技術の開発に着手。
予算も経験もない中で試行錯誤を続け、なんと中東初の大気圏に届くロケットの打ち上げに成功しました。これは隣国イスラエルよりも早いもので、経済規模から考えると驚異的な偉業でした。
この事実はしばらく忘れられてしまいますが、2013年にドキュメンタリー映画「レバノンロケット協会」が公開され、再び日の目を浴びることになりました。
Photo from KOSOVE SOCIETY AT THE UNIVERSITY OF SOUTH FLORIDA
http://www.usfkosovesociety.org/kosove-professorship.html
「小国レバノンでも、アラブ世界で誰もできなかったことをやってのけたんだ」
「僕たちは20代前半で若くて、何かデカいことをやってやろうという気持ちがあった」
こう語ったのは、1960年代にレバノンのロケット開発を主導した男、マヌーク・マヌーガン。
ヨルダン川西岸地区のイェリコで生まれ、エルサレムで育ったアルメニア系の人物です。
幼い頃から宇宙に興味があり、ロケットの開発を夢見る子どもで、テキサス大学に留学して数学と物理学を学びました。卒業後、彼はレバノンに渡りハイガジアン大学という無名の大学の教授となりました。
1960年11月、若く野望に燃えるマヌーガンは、中東初のロケットの開発を目指し「ハイガジアン・カレッジ・ロケット協会」を設立。
マヌーガンの熱意に賛同したレバノン人学生数人も参加し、レバノン初のロケット開発プロジェクトがスタートしました。
当然ながら予算はまったくない状態からのスタートでした。
マヌーガンは妻に頭を下げ、ただでさえ少ない給料から自費で資材を購入し研究費に充てました。
すべては手作りで、プロトタイプのロケットは段ボールとパイプで制作。
第一回目の発射テストは首都ベイルート近郊の山にある農場で行われました。大学関係者も立ち会いのもと行われ、非常に原始的な造りながら、ロケットは無事に発射に成功したのです。
プロトタイプの成功によりロケット開発は本格化し、マヌーガンと7人の学生たちがデザインを改良し、実際に大気圏までの突入を目指したものの開発が進められました。各学生にはロケットのさまざまなパーツの改良の担当が割り当てられ組織的に開発が進み、全長1.75メートルの固体燃料のロケットの開発に成功。
1961年4月に打ち上げたロケットは高度1,000メートルに達し、5月には高度2,000メートルに達しました。
これはイスラエルが初めてロケットを発射した1961年7月より3ヶ月早く、レバノンは中東で初めてロケットの打ち上げに成功した国となったのです。
輝かしい成功を収めるも、マヌーガンはこの試みは教育の一環で学術的挑戦であり、ミサイルなどの軍事的開発であるとは全く思っていませんでした。
そのため、非常に危険で扱うには高度な技術を要する特定のロケット推進剤は固く使用を禁じており、あくまで学生が取り扱える範囲のレベルに留めていました。
これまでの打ち上げの成功で、ハイガジアン・カレッジ・ロケット協会はメディアにも取り上げられ、レバノン人であれば誰しもが知るレバノンの誇りとなっていました。
すると、政府・軍が協会への支援に乗り出すように。
レバノン軍は弾道学が専門のユセフ・ウィヒビを協会に派遣。彼はフランスとアメリカからロケットの部品を入手して協会に提供し、より高度な組み立てを可能にするため軍事工場も提供しました。
レバノン大統領フアード・シハーブはマヌーガンを大統領主催の晩餐会に招き、教育省の向こう2年の資金援助を約束。
これに伴い、組織の名称も「レバノン・ロケット協会」に改名され、国家の紋章が正式なロゴとして採用されました。
国家の予算が投下されたことで開発はさらに加速・高度化し、3段式のロケットの開発が進行。もはや、教育や研究ではなく明確な国家的研究と化し、実際に熱圏に到達するほどのレベルに達しました。
1963年に発射されたCedar IVロケットは軌道上の衛星の高度に近い90マイル(145km)の高さに達し大成功を収めました。成功を祝し、記念切手も発行されました。
ロケットの高度化により、マヌーガンは宇宙に生物を連れて行く計画をスタート。
ちょうどその時はソ連とアメリカが動物の宇宙飛行や有人宇宙飛行に乗り出していた時で、マヌーガンは「ミッキー」と名付けられたネズミを訓練し、大気圏に連れてくための研究を進めていました。
ところがそのようなマヌーガンの意図とは異なり、レバノン軍はロケットの軍事化を検討しており、軍から派遣されたユセフ・ウィヒビは協会の内部から本格的なミサイル開発へと軌道を修正しようと画策していたのです。
レバノンではロケット発射が国家イベントとなり、ロケット発射が成功するたびにベイルートで華やかな成功パーティーが開かれるようになりました。
マヌーガンの名声も高まっていくと、彼の周辺に外国のスパイが現れるようになり、事務所も昼夜監視されるようになりました。アラブ周辺各国はレバノンのロケットを転用したミサイル技術を自国に導入することを目指したのです。
ある時には、あるアラブの国に「莫大な報酬金と引き換えに技術を提供する」ように提案されました。
マヌーガンはあらゆる暴力に反対する立場であり、この提案を拒否しました。
しかし、ロケット開発はもはや純粋な研究や教育ではなく、国際政治が絡むややこしい問題に発展し、彼の手には負えないほど大きなものになってしまったことを悟りました。
マヌーガンは1964年7月に修士号の続きを取得するためにいったんアメリカに帰国。
するとその間、マヌーガンが禁止していた取り扱い危険なロケット推進剤を使った開発にGOがかかってしまったのです。
それを促したのが、レバノン軍の息のかかった研究者ユスフ・ウィヒビ。
彼が煽ったことにより、リスクが高く軍事転用可能な推進剤を用いたロケットの開発が進行してしまいます。
そうして1964年の夏に発射された新型のロケット。
危険な推進材を用いた代物はやはり学生の手に負えるものではなかったようで、発射直後に炸裂してしまいます。
一人の学生はもろに炸裂を全身に浴びて火だるまになり失明。彼を救おうとした別の学生も重症の火傷を負いました。
その後も協会は1966年に同形のミサイルを開発し、地中海に向けて一発発射しますが、数メートル進んだ後に爆発。
ここにおいて、レバノンのロケット開発は完全に暗礁に乗り上げたのでした。
1967年、イスラエルと中東諸国の火種はくすぶり、戦争の危機が近づいていました。
マヌーガンはアメリカ大使館に務める友人から「すぐにレバノンを去るべきだ」と警告を受けました。マヌーガンは彼がCIAであることを知っており、つまるところイスラエルとも繋がっていたわけです。
もしかしたらイスラエルは、マヌーガンが開発したレバノンのロケット技術がアラブ諸国に渡ることを懸念していたのかもしれません。
しかし当時のマヌーガンにとっては渡りに船だったのか、アメリカに渡りテキサス大学に戻って博士号の学位を取るための勉強を再開しました。
そして1967年の第三次中東戦争は、イスラエル軍がアラブ諸国を圧倒。
わずか6日間でエジプト・シリア・ヨルダンの軍を壊滅させたのでした。
レバノン・ロケット協会で研究を行なった学生は軒並み海外に流出。レバノンのロケット研究は人材が失われたことで完全にゼロになり、今やかつてロケット研究の最先端国だったことすら忘れられています。
金もなく設備もままらない中、若い教授と学生の寝食を忘れるほどの情熱で開発され、世界最先端のレベルにまで達してしまった。
あまりにレベルが高まってしまい国家の介入を受けたことで当初の研究の情熱は形骸化し、形だけとなったので無残に失敗。人が去って研究は跡形も無くなってしまいました。
開発環境が貧しくも情熱だけである程度のレベルに達することはできますが、それ以上のレベルを発達させキープするには、適切なマネジメントと資金の投入が不可欠であり、そういう点でレバノンのロケット開発はどこかで頓挫する運命にあったといえるかもしれません。
とはいえ、米ソの間で独自のロケット開発に成功した教授と学生の物語は、「プロジェクトX」的な魅力があると思いませんか?
「The lebanese rocket society」『amazon.co.jp』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00HNYBM4Y/hayskonpa-22/
“The Bizarre Tale of the Middle East’s First Space Program”Smithonian.com
https://www.smithsonianmag.com/history/bizarre-tale-middle-easts-first-space-program-180960808/
“The unbelievable true story of the ‘Lebanese Rocket Society’”Hummus For Thought
https://hummusforthought.com/2013/03/12/lebanese-rocket-society-a-review/
“Lebanon’s forgotten space programme”BBC News
https://www.bbc.com/news/magazine-24735423
執筆: この記事はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2019年4月29日時点のものです。