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今回はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。
マフディーの反乱は現在のスーダンで1881年から1889年の間にかけて起こった反乱。
マフディー(救世主)が指導する農民主体の反乱軍は何度もイギリス・エジプト軍を退け、約18年間の間独自の統治を行いました。
しかし相次ぐ対外戦争で国力は疲弊し、イギリス・エジプト軍の巻き返しもあり崩壊。スーダンはイギリス・エジプトの統治領となります。
しかしこの時の反乱は現代のスーダン国家の基礎となり、当時の指導者マフディーは現在でも政治指導者として活躍するなど現在に受け継がれています。
19世紀前半、スーダンは北部にフンジュ・スルタン国、西部にダル・フールというイスラム系の王朝があり、南部にはディンカ、ヌエル、シルク、アザンデ、バリなどのアニミズムを信仰する諸部族が割拠していました。
イスラムを受容した北部は強大で、フンジュ・スルタン国は一時は広大な領土を持つ大国となるも、19世紀前半には内紛と外部からの介入によって衰えていました。
そんな中、ムハンマド・アリーの強力な指導の下、急速に軍と経済の近代化を図るエジプトがヨーロッパ列強の手がまだ付いていないスーダンを植民地化しようと南下します。フンジュ・スルタン国は若く勢いのあるエジプト軍の前にあっけなく崩壊し、ダル・フールも南部スーダンもムハンマド・アリーの息子イスマーイールの時代に征服されました。
エジプトはスーダンに近代的なインフラをもたらし、鉄道や河川交通による流通網の拡充、電信の敷設などが結ばれ、商品経済が急速に普及しました。
一方でエジプト支配下でこれまでのスルタンや地元の王による温情的でおおらかな統治は廃止され、近代的な税制の導入により厳密な課税がなされ人々を困惑させることになります。
またスーダンにまでやってくるエジプト人官僚はだいたい、中央から何らかの理由で除外された人間で人格に問題がある者が多く腐敗しきっており、スーダン人にエジプト統治に対する怒りが満ちていきました。
そんな中、ヒジュラ歴から1300年にあたるイスラムの世紀末の1882年、世間では神に導かれた指導者マフディーが現れて悪を打ち倒し、世に正義をもたらすという噂が広まっていました。
1820年ごろからマフディーを求める人々による大小の反乱は起こり始めていました。1820年から1823年まではケナー県でシャイフ・アフマドという男が率いる反乱が発生し、1824年には同じくケナー県でアフマド・イブン・イドリースが率いる農民反乱が発生。1865年にはアスュート県ではアフマド・タイイブという人物が反乱が発生しています。
そうして1881年、「マフディー反乱」と呼ばれることになる蜂起を起こしたのが、ムハンマド・アフマドという人物です。
マフディー反乱の始まり
ムハンマド・アフマド は1844年、スーダン北部の町ドンゴラ近くのラバブ島の舟大工の家に生まれました。父は敬虔なムスリムで、影響を受けたアフマドは若くしてイスラムを学び、後に新興のスーフィー教団サンマーニヤ教団に所属して布教活動を行うようになりました。魅力的な人柄のアフマドの周辺には人が集まり、説教を行う時には多くの観衆が詰め掛けました。
1881年、アフマドは自らを「マフディー(救世主)」と宣言します。これに応え、近隣から彼に付き従う男たちが次々と馳せ参じ、不穏な雰囲気となっていきました。
エジプト当局はアフマドに出頭を命じますが応じなかったため、約200人の部隊を派遣し鎮圧にあたりました。しかしこの治安部隊は槍や棍棒しか持たないアフマドの武装勢力によって制圧されていまいます。
マフディー軍は本拠地であるアバー島からジャバル・カディールという町に移動(彼らはこれをヒジュラと呼んだ)してさらにメンバーを拡大し、エジプト軍の討伐隊をさらに打ち破りました。
マフディー軍の活躍はエジプトの圧政に憤る人々に勇気を与え、信奉者はどんどん増えていくことになります。
ヒックス隊の全滅
世直し運動から革命運動に進化したアフマドのマフディー軍反乱は、エジプト軍が駐屯する大都市を攻撃しスーダンの解放運動を進めていきます。
1883年1月にコルドファーン地方の都市エル・オベイドを落とし、エジプト軍の武器弾薬を大量に獲得し、さらに駐屯していたスーダン兵を寝返らせることに成功しました。
イギリス流の軍事訓練を受けた部隊が入隊したことで、マフディー軍は単なる反乱軍ではなく組織化された近代軍と変化してくことになります。
事態を重く見たエジプト政府は、元英領インド軍のイギリス人ウィリアム・ヒックス大佐を招集し、約9,000の遠征軍をスーダンに派遣しました。
ヒックスとヨーロッパ人指揮官率いるエジプト軍はエル・オベイドに攻め込むも、マフディー軍のゲリラ攻撃に悩まされ、またマフディー軍はエジプト軍にスパイを紛れ込ませ乾燥の激しい地帯に迷い込ませました。水と食料の不足に陥ったエジプト軍は疲弊。時は来たと見たマフディー軍総勢5万がエジプト軍に一気に襲いかかりました。
エジプト軍は壊滅し、ヒックス含む全てのヨーロッパ人指揮官も死亡。ヒックスの首は戦利品として持ち去られました。
相手はエジプト軍だったとは言え、ヨーロッパ人が率いた戦いに大勝利したことにスーダン中が歓喜に包まれます。
スーダン各地でこの勝利に便乗した蜂起が相次ぎ、東岸地区ではウスマン・ディグナという男がベジャ系部族を率いて蜂起。この反乱軍もイギリス人が率いたエジプト軍を撃退します。さらには、西部でもマフディー軍が元オーストリア軍人のルドルフ・カール・フォン・スラティンが統治するダル・フール地方を制圧し、西南部でもイギリス人のフランク・ラプトンが統治するバフル・エル・ガザル地方を制圧しました。
マフディーの反乱はいよいよスーダン中に吹き荒れ、首都ハルツームも陥落寸前となっていました。
ゴードン将軍の悲劇
スーダン情勢の緊迫はイギリスでも深刻な問題と受け止められ、事態の打開のためにかつてスーダンで総督を務めたウィリアム・ゴードン将軍をハルツームに派遣することが打診されました。
ゴードン将軍はかつて太平天国の乱の際に、中国人から成る民兵軍である常勝軍を率いて太平天国軍を打ち破ったことで名を馳せた名将。清廉潔白で誠実な人柄で、敬虔なキリスト教徒でもあるゴードンは、イギリス国民に大変愛される存在でした。
1884年2月にハルツームに赴いたゴードン将軍は、自体が想像以上に逼迫していることを知ります。
スーダン全土で蜂起が発生し各地に駐留している軍は相互に連携を断たれ孤立しており、仮にエジプト軍が撤退すると現在エジプト側についている地方の指導者も一気にマフディー側につくことが明白で、事態を打開しないと二度とこの地を確保できなくなる可能性がありました。
ゴードンは本国に増援を要請しますが、首相グラッドストンは一刻も早いスーダンからの撤退を求めており、まったく応じようとしない。そうしてゴードンが本国との調整をする間も刻一刻とマフディー軍は圧迫を強めていました。
1885年3月にハルツーム北方の部族がマフディー軍に寝返りハルツームの電線を切ってしまい、本国との連絡も取れなくなります。連絡が取れなくなったゴードン将軍を救うべきとイギリス国民は突き上げます。エリザベス女王までも問題解決に乗り出しグラッドストンは重い腰をあげざる得ませんでした。しかし遅すぎた。ゴードンはハルツームに突入したマフディー軍兵士によって殺害されてしまいました。
イギリス国民は激昂し、ゴードン救援の軍を送ることに躊躇したグラッドストンに怒りをぶつけ内閣支持率は急落。次の総選挙でグラッドストン率いる自由党は保守党に敗れてしまいました。
マフディー国家の建設
一方で、イギリス人が率いる軍に連戦連勝し首都ハルツームをも陥落させたマフディー軍の権威は高まるばかり。有力者の大部分がマフディーの側に入り、「マフディーを認めない者はムスリムにあらず」的な異様な雰囲気に満ちていました。
そんな中、アフマド率いるマフディー軍は新しい首都をオムドゥルマンに指定し、イスラムに基づく神政一致の新国家を創設。イギリスやエジプトはもちろん、オスマン帝国の権威を全て否定し、救世主たるマフディーの下に全てが集約されるという新たな政治的文脈が構築されました。反乱軍が統治する当時のスーダンを「マフディー国家」と呼んだりします。
2代目カリフ・アブドゥッラーヒ
初代ムハンマド・アフマドは、マフディー国家成立後すぐに急逝。
生前アフマドが指定していた4人の後継者「カリフ」から、もっとも有力なアブドゥッラーヒ・イブン・ムハンマドが2代目カリフに選ばれました。
アブドゥッラーヒはコルドファーン地方のバッガーラ遊牧民タアーイーシャ部族の出身。コルドファーン地方は貧しく、その中でもバッガーラ遊牧民は特に貧しく、精悍で団結力が強い部族です。
アブドゥッラーヒは自らが信をおけるバッガーラ遊牧民出身者を要職に取り立て、スーダン全土にスパイ網を敷き反対勢力を摘発する体制を作り上げました。
アブドゥッラーヒはアフマド時代からの方針を引き継ぎ、マフディーによる支配を拡大することでイスラム社会の世直しをするという大義名分で対外戦争に乗り出します。
1889年にエチオピアに侵攻し準備の不充分だったエチオピア軍を打ち破り、国王ヨハネス4世を討ち取ってしまいます。
次いでエジプト南部にも侵攻し、エジプト領約60キロのところまで進出しました。 さらに南部では、現南スーダンのエクアトリアにも遠征軍を派遣しました。
対外戦役の停滞
しかし1889年を境に対外戦役は停滞するようになります。
ヒックス率いるエジプト軍を壊滅させた将軍ネジューミー率いるエジプト遠征軍が1889年8月にエジプト軍に惨敗し、部隊がほぼ壊滅。ネジューミーも討ち取られてしまいます。
紅海沿岸ではイギリス軍に拠点を奪われ、エチオピア軍も体制を立て直し攻勢に打って出、エリトリアを植民地とするイタリア軍からも攻撃を受け東部の要衝カッサラが陥落しました。
度重なる戦役に人々の間に疲労感が高まり、戦死で人口が減った他働き手が減ったことで経済は停滞。アブドゥッラーヒの出身部族ばかりが優遇される不公平な体制にも不満が相次ぎ有力部族が次々と反旗を翻す。さらには疫病が蔓延し人口も1/4程度にまで減少してしまいました。
一方イギリスでは、保守党のソールベリー内閣成立後、スーダン情勢の一刻も早い安定化を求める声が上がっていました。列強によるアフリカ分割のフロンティアであるスーダンは各国がその領有を狙っており、フランスはコンゴから、イタリアはエリトリアからスーダンへの侵攻を画策していました。ナイル川の上流を敵対勢力に抑えられては困るイギリスは、本格的なスーダン介入に乗り出すことになります。
オムドゥルマンの戦い
イギリス・エジプト連合軍を率いるのは、後に第一次世界大戦時に陸軍大臣を務めることになるホレイショ・キッチナー将軍。
工兵出身のキッチナーは、早急な軍の展開を避けて鉄道を敷設して補給路を確保しながらジリジリと詰めていく戦略を採りました。
マフディー軍は展開する敵軍に対するゲリラ戦は得意だが、このように時間をじっくりかけられる慎重な攻めは苦手。有効な手が打てず、内紛の不安を抱え、国力は疲弊し兵の士気も上がらない。しかも兵器は老朽化しており、とてもイギリス軍のマシンガンや駐退機付きの大砲などの最新兵器には対抗できなくなっていました。
1889年4月、イギリス軍の鉄道がヌブア砂漠に到達したことを知ったアブドゥッラーヒは、急遽1万9,000の軍勢を北上させます。アトバラの地で両軍が激突し、マフディー軍は惨敗。イギリス・エジプト軍の死者が100人未満だったにも関わらず、マフディー軍は約3,000もの死者を出し、アブドゥッラーヒの甥マフムード・アフマドも捕虜となりました。
▽アトバラの戦い
キッチナー率いるイギリス・エジプト軍はさらに南下を続け、首都オムドゥルマンの北方10キロの地点に到達。
祖国防衛の最後の戦いと位置付けるマフディー軍は、総勢52,000の大軍でキッチナー軍に総突撃をかけました。
これに対しイギリス・エジプト連合軍は、歩兵と砲兵による一斉射撃と、ナイル川に停泊する砲艦からの砲撃によってマフディー軍を攻撃。
マフディー兵の総自殺のような悲惨な戦いで、次々と押し寄せるマフディー兵はイギリス・エジプト連合軍の射撃の前になぎ倒され、早朝に始まった戦いは昼前には終わり、この戦いでマフディー軍の半分にあたる27,000が死傷。イギリス・エジプト連合軍は382人しか死傷者を出しませんでした。
その大部分は第21騎兵連隊の突撃によるもので、かつて戦の華であった突撃攻撃がいかに時代錯誤かをまざまざと見せつける戦いでもありました。
▽オムドゥルマンの戦い「第21騎兵連隊の突撃」
敗れたアブドゥッラーヒはオムドゥルマンから辛うじて逃れ、マフディー運動の故郷アバー島に戻りますが、イギリス・エジプト連合軍の部隊による追撃を受けて戦死しました。
オムドゥルマンを占領したイギリス・エジプト連合軍は、旧都ハルツームを回復しスーダンをイギリスとエジプト両政府で統治する「スーダン・コンドミニウム協定」を調印。ここにおいて「英挨領スーダン」が成立しました。キッチナーは初代総督に就任しました。
マフディーのその後
マフディー軍の残党はその後も地方で散発的な抵抗を続けましたが、20世紀初頭には軍事抵抗は沈静化していきました。
マフディー勢力はその後、ムハンマド・アフマドの末っ子で穏健派のアブドゥルラフマーン・アル=マフディーの下に集まりイスラム社会改革を目指すグループに変化。
スーダンが1956年にイギリスとエジプトから独立する際に、アブドゥルラフマーン・アル=マフディーはマフディーの後継団体であるウンマ党の設立に関わり、その後現在までウンマ党は世俗主義イスラム政党として首相を多く排出しています。
ウンマ党の指導者にはムハンマド・アフマドの子孫が多く、サーディク・アル=マフディー(首相在位期間:1966年7月~1967年5月)、サーディク・アル=マフディー(首相在位期間:1986年5月~1989年6月)を始め、多数の閣僚や在外スーダン大使を排出する名門一族となっています。
世直しを求める民衆の声は、1人のカリスマ的な男の周辺に集まり、いくつかの軍事的成功をきっかけに周辺の人々を統合する一大運動に変化していきました。
しかし当時のマフディーの求心力はあくまで「軍事力」であって、どこかに敵を見つけて勝ち続け「マフディーによるイスラム国家」を拡大し続けなければならない運命にありました。それも初期イスラム教団に非常に似ているのですが、いつかどこかで破綻する運命にあったと言えると思います。
この時の運動により、様々な部族が割拠する広大な土地はスーダン(現在の南スーダンを除く)という一つの地域にまとめられ、その後の英挨領スーダンの統治下で文化的・経済的統合がなされていくことになります。
参考文献
エジプト近現代史―ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで― (世界歴史叢書) 山口直彦 明石書店
「新版 エジプト近現代史―ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで― (世界歴史叢書) 」2011年10月19日『amazon.co.jp』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750334707/hayskonpa-22/
執筆: この記事はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2019年3月8日時点のものです。