今回はバージルさんのブログ『読む・考える・書く』からご寄稿いただきました。


警察署に保護された朝鮮人を「普通の日本人」たちが引きずり出して叩き殺した「藤岡事件」(読む・考える・書く)


95年目にして初めて被害者遺族が慰霊祭に参加


先日、関東大震災時の「藤岡事件」で虐殺された被害者の遺族2名が来日し、事件から95年目にして初めて、現地での慰霊祭に参加したという報道があった。


毎日新聞(9/7)[1]:



 関東大震災(1923年9月1日)で虐殺された朝鮮人の遺族2人が来日し、東京都内で7日、記者会見した。韓国で昨年8月に遺族会が結成されてからメンバーの訪日は初めて。「埋もれている事実は多い。遺族にとっても過去について改めて知るのはつらいが、真実は明らかにされるべきだ」と訴えた。

 来日したのは、祖父を殺害された権在益(クォン・ジェイク)さん(61)と、祖父の兄が犠牲になった曹光煥(ソ・ガンファン)さん(57)。

 (略)権さんは「日韓の市民の多くは虐殺事件について知らないのではないか。埋もれている真実がもっと明らかになれば、日韓関係は改善し、東アジアの平和につながると思う」と語った。

 曹さんは、9月1日の朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付を小池百合子東京都知事が取りやめたことについて「だからといって虐殺の事実がなくなるわけではない。日韓双方が発展的な見地から協力して事実を明らかにし、追悼することが大事だ」と話した。


共同通信(9/9)[2]:


 1923年の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺の犠牲者の慰霊碑がある成道寺(群馬県藤岡市)で9日、恒例の慰霊祭が営まれ、碑に名が刻まれた男性の孫権在益さん(61)が韓国から来日し、初めて参拝した。これまで男性の親族は誰も訪れていないといい、権さんは「弔いに来るのに95年かかった。慰霊に感謝している」と語った。



画像出典:毎日新聞

「関東大震災から95年 虐殺された朝鮮人の遺族来日 否定の動き、ヘイトスピーチ続く中…伝える努力に希望」2018年9月12日『毎日新聞』

https://mainichi.jp/articles/20180912/dde/012/040/006000c


千名以上の暴徒が警察署から朝鮮人を引きずり出して叩き殺した


この事件は、震災発生から4日後の9月5日と翌6日、群馬県多野郡藤岡町(現・藤岡市)で発生した。


「関東」大震災といっても、震源(相模湾付近)から遠い北関東のこのあたりは揺れも比較的小さく、地震そのものによる被害は軽微だった。また、地震と火災で壊滅状態になった東京や横浜では深刻な食糧難が発生したが、農村地帯のこちらはむしろ被災地に食糧を供給する側だった。つまり藤岡事件は、地震による混乱もない中、朝鮮人への差別意識を流言によって煽られた民衆が実行した、「純粋なヘイトクライム」だったと言える。


加害者たちを裁いた第一審の判決文によれば、事件1日めの9月5日の状況は以下のようなものだった[3]。


 以上の判決文の内容をみると、藤岡警察署は朝鮮人のいわゆる不逞行為を恐れて地域住民が騒動を起こすことを防止する目的で朝鮮人17人を「検束」したが、数百人の地域住民が駆け付け、藤岡警察署留置場に乱入し、17人の朝鮮人のうち、李在浩をのぞいた16人を留置場から引っ張りだして殺害したというものである。

 李在浩が除外された理由は次のようである。はじめ、狂奔した群衆が朝鮮人17人のうち3、4人を留置場の前に引っ張りだして殺害した後、再び朝鮮人2人を事務室につれていって、東京で爆弾を投げただろう、放火をしただろうと質問したが、朝鮮人が言葉の意味を理解できなかったので、外につれていって消防展望台の横で殺した。すると、それを見た留置場の朝鮮人たちは留置場の床下や天井に隠れ、李在浩は屋根をうち壊してどこかへと逃げた。李在浩が逃走したのは確実だが、その後の行方については定かではない。(略)

 殺害に使われた道具には竹槍、棍棒、鳶口、日本刀、手槍、猟銃のほか、鍬、木材、木の棒、鎌、針金、石、木刀、心張棒、鉄棒などが使われたことが判決文から確認できる。狂奔して警察署まで襲撃した数百人の群衆による殺害がどのような形で行なわれたのか想像もできないが、9月5日の藤岡事件では、様々の種類の多くの棒が証拠として押収されたことをみると、打ち殺しが多かったと推定される。

 被告人荒井滋の場合は、「同署裏手六地蔵附近二於テ、所持ノ日本刀ヲ以テ一鮮人二斬付ケ、次テ右留置場附近二於テ、右日本刀ヲ以テ鮮人三名ノ背部其他ヲ突刺シタル上、更二同所二於テ他ノ日本刀ヲ以テ一鮮人ノ背部ヲ突刺シ、何レモ他ノ者卜協力シテ、順次之ヲ殺害シ」たとした。心張棒をもった大原袈裟吉の場合は、「同署留置場前二於テ所持ノ心張棒ヲ以テ鮮人二名ノ頸部其他ヲ乱打シ、他ノ者卜協力シテ、順次之ヲ殺害シ」たという。(略)

 ここで恐ろしいのは、あらゆる被告人が、最初、警察署もしくはどこの場所で、朝鮮人何人を、どの部位を、どの順序で、どのように協力して殺害し、その後、どこに移動してどのようにしたかを、きわめて正確に覚えている事実と、途中、自警団員何人かは、朝鮮人をどのように処理するかを、計画した後実行に移した事実である。(略)当時被告人たちがこのように淡々と、そして明確に朝鮮人殺害の事実を語ったということは、尋問をうける当時も朝鮮人は殺してもかまわないという認識あるいは意識が強かったことを物語っているものではないだろうか。


しかも、事件はこれだけでは終わらなかった。翌日、自ら保護を求めて藤岡警察署にやってきたもう一人の朝鮮人も殺されている[4]。


 (略)9月6日正午ごろ、群馬県多野郡日野村の自警団員と同行して藤岡警察署にやってきた朝鮮人車鳳祚の名前が確認される。藤岡警察では、調査を通じて彼が不逞鮮人でないことを確認し、その事実を地域住民に知らせたにもかかわらず殺害された。

 (略)

 結局、車鳳祚は自ら保護を求めて警察署に行ったところが、かえって狂奔した民衆「数千人」によって殺害されたのである。「判決文」には、(略)だれが車鳳祚を殺したのかについては明示されていない。ただ、「大勢カ一鮮人ヲ留置場ノ方ヨリ引出シテ盛二殴リ居タル」という鈴木常蔵の予審調書の内容からわかるように、9月5日夜に発生した事件と比較すると、車鳳祚は前夜より多い日本人「数千人」に袋だたきにされて死んだものと推定される。ここで「数千人」という数字は、藤岡周辺地域に居住する、老若や婦女を除いたほとんどの青壮年が参加したとみてよいだろう。9月6日の藤岡事件は先述のように、朝鮮人殺害より警察署襲撃と官舎および器物破壊などを重要犯罪として処理して判決を下した事件であっただけに、車鳳祚の殺害にたいしては、いっそうの惨憺さを禁じえない。


狂気に駆られた大群衆に引きずり出され、取り囲まれ、有無を言わさず袋叩きにされて殺されていった被害者たちの恐怖と苦痛はどれほどのものだったか。これは普通の人間が想像できる範囲をはるかに越えている。


朝鮮人の虐殺より官憲への反抗を重く見た日本の司法


この藤岡事件も含め、朝鮮人を虐殺したとして自警団員が起訴された事件はわずか22件(被告人総数203名)しかない。(軍隊や警察が加害者となった事件は最初から無視。)これは、当時の日本政府の方針が、法治国家としての責任を果たしたかのような外観を作るために一応加害者(ただし一般人に限る)の処罰はするが、やりすぎるとデマを流した官憲自身の責任を追求されかねないのでそれは最小限にとどめる、というものだったからだ。[5]


藤岡事件の場合、37名が起訴されたものの、実刑判決を受けた加害者は裁判が進むにつれて


 第一審:25名 → 控訴審:9名 → 上告審:2名


と減少し、最高刑も懲役3年に過ぎなかった。日本人9名が虐殺された福田村事件では最終的に実刑7名、最高刑が懲役10年だったのに比べると、いかに朝鮮人の命が軽く見られていたかが分かる。[6]


しかも起訴した検察は、朝鮮人の虐殺そのものよりも、その過程で被告人らが警察署を襲撃し、署内の器物を損壊したことのほうを重大視していた。[7]



 (略)ところで、ここで見逃してはならないことがある。②(注:警察襲撃による朝鮮人虐殺事件)の実刑率が高いのは、藤岡事件の場合、事件を担当した樫田忠美検事が、初日の朝鮮人虐殺より、2日目の警察署襲撃や警察署の器物破壊を重視した結果であった。

 このような姿勢は、1923年11月5日、前橋地方裁判所で開かれた藤岡事件の審理法廷で、樫田検事が警察署を襲撃し、器物を破壊した加害者たちを責めたてる内容にも明確にあらわれている。


 被告等が五日の夜騒いだ事は流言輩語を信じ、熱狂の余り為したとするも、幾分諒解したるが、六日の夜にも再び騒ぐと言う事は何の有様ぞ。警察を破壊、官舎や署内に闖入し、箪笥や机や椅子や諸帳簿を引摺り出して叩き壊し、放火するが如きは何故か。鮮人はまだしもとするも、警察に何の遺恨があるか。何を意味するものか。これ即ち平素警察に好意を持って居らぬのではないか。(中略)依って五日の騒擾より六日の騒擾が重いと見るのである。



検察から見れば、朝鮮人虐殺は官憲も民衆と共有していた(というより大日本帝国政府が長年民衆に植え付けてきた)差別意識の暴発に過ぎなかったのに対し、警察署襲撃は許されざる権力への反抗だったからである。


[1] 『関東大震災 虐殺朝鮮人遺族2人が来日「真実は明らかに」』 毎日新聞 2018/9/7

https://mainichi.jp/articles/20180908/k00/00m/040/088000c


[2] 『虐殺朝鮮人、群馬で慰霊祭 95年後に初、韓国の孫が参拝』 共同通信 2018/9/9

https://this.kiji.is/411431681335166049?c=44341039600582657


[3] 姜徳相ほか 『関東大震災と朝鮮人虐殺』 論創社 2016年 P.95-96

[4] 同 P.97-98

[5] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』 創史社 2003年 P.97-99

[6] 同 P.102

[7] 『関東大震災と朝鮮人虐殺』 P.91


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「関東大震災後の熊谷市での虐殺」2010年09月26日 『読む・考える・書く』

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「朝鮮人虐殺犠牲者への追悼文を今年も「控える」と言う小池都知事の悪辣さ」2018年08月12日 『読む・考える・書く』

http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/12/143628


執筆: この記事はバージルさんのブログ『読む・考える・書く』からご寄稿いただきました。


寄稿いただいた記事は2018年9月28日時点のものです。


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情報提供元: ガジェット通信
記事名:「 警察署に保護された朝鮮人を「普通の日本人」たちが引きずり出して叩き殺した「藤岡事件」(読む・考える・書く)