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柏木の死は多くの人を悲しませました。親友の夕霧も、親族に負けず劣らずの喪失感を味わいますが、悲しみの中にもある疑問が日に日に大きくなります。彼が死ぬ間際に言い残した「君の父上に謝罪したい」という、あの謎の言葉の真意です。
猫が御簾を巻き上げた時も現場に居合わせた夕霧には、どうしても女三の宮のこととしか思えません。
夕霧の知る柏木は、表面上はクールに見えても、実は案外脆くて熱いハートの持ち主でした。猫の件以降、異常なほど女三の宮に執着し続けた彼が恋心に負け、間違いを犯したとしても、あり得ないことではなさそうです。
そこへ来て、逆に不可解なのは女三の宮の出家。それほど具合が悪いとも聞いていなかったのに……。何より、一度絶命した紫の上の出家さえ全力で止めた源氏が、今回は許可したのもおかしな話。それも、息子を生んだばかりの正妻の出家を。
柏木の死と女三の宮の出家、2つの大事件は見えない糸でつながっている……。夕霧はそう推理します。名探偵・夕霧。それにしても、もっと早く打ち明けてくれればよかったのに!
妻の雲居雁にも話さず、夕霧はこの謎を胸一つにしまい込みます。「柏木の希望通り、いずれ父上に切り出してみよう。その時、一体どんな反応をされるか……」。でもまだ、そんなチャンスは来そうにありません。夕霧は親友のもう一つの頼みを実行に移します。
柏木の正妻・女二の宮の住まう一条邸も、悲しい春を迎えていました。恩義のある人たちはお見舞いに来てくれますが、それでも使用人たちは少しずつ減りはじめ、広大な邸はガランとして寂しさを増すばかりです。柏木の好きだった鷹狩や乗馬の係の者も、もう出番はないとしょんぼり。こういう人たちもいずれ、別な貴族のもとに再就職していくんでしょうね……。
いつもかき鳴らしていた、彼愛用の琵琶や和琴も絃を取り外され、もうあの美しい音色を立てることはありません。文武両道、スポーツ万能で楽才もあった、故人・柏木の姿が浮かび上がってきます。
この邸での別れを最期に、ついに旅立ってしまった夫。結局、最期を看取ることもできなかったと思うと、二の宮の胸は塞がります。
「あの方は女として私を愛してくれたわけではないけれど、表向き、皇女として申し分なくお世話して下さった。でも、こんなに早く亡くなってしまう運命だったから、世間並みの普通のこと、結婚生活にも興味が持てなかったのかも……」。
あれから何日経ったのかもわからないような心地なのに、いつの間にやら庭の桜は散り出し、木々が芽吹いていきます。悲しいときは季節の移ろいが一層身にしみて、より切ないものですね……。これぞもののあはれという感じですが、宮が物思いに浸っていると、華やかな前駆(身分のある人の移動時に先払いをする声)が聞こえ、屋敷の前で止まります。
「まあ、柏木さまがおいでになったのかと思いました」。喪服姿の女房が勘違いしたのも当然、お見舞いに来た夕霧でした。柏木の弟たちが来たのかと思いきや、意外な人物の登場に、邸内は慌ただしくおもてなしの準備です。女房だけでの応対では失礼と、宮の母・一条御息所が挨拶に出てきました。
「故人とは幼い頃からの親友同士、自分では家族以上の付き合いだったと思っております。彼が臨終の際にこちらの宮さまのことを非常に気にかけておりましたので、こうしてお見舞いにまいりました。
あちらの両親も非常に嘆き悲しんでいる様子ですが、やはりお夫婦の間にはまた、特別な感情がお有りかと存じます。宮さまがどんなに無念でいらっしゃるかと想像するにつけ、誠にご同情申し上げます」。
丁寧なお悔やみを言いながら涙を流す爽やかな美青年・夕霧に、御息所ももらい泣きしながら答えます。
「どんな人ともいつかは死に別れると、この年ではようくわかっておりますけれど……まだお若いこの宮が、はからずも未亡人という身の上になられたのがおいたわしい限りです。
自然とお聞き及びでしょうが、私はこの結婚にはずっと反対でした。昔人間ですから“皇女たるもの、気高く独身を貫くべき”とばかり思っておりましたの。でもあちら(頭の中将家)の強いご希望もあって、それならと同意したのですが、こんなことになるとわかっていたなら……やはり自分の意見を貫き通せばよかったと後悔しております。
宮が悲しみのあまりを追ってしまいそうに見えるのが、なんとも不吉に思われますが……それにしてもあの方は最期にこちらのことを随分お気遣い下さったのですね。生前はそれほどお優しい方とは思えませんでしたのに。悲しみの中にも嬉しい気持ちが交じる思いです」。
確かに柏木は最期まで誰彼なく二の宮の今後を頼んでいました。あまり良い印象を持っていなかった姑の御息所も、これには少し彼を見直してくれたようです。
「時しあれば変はらぬ色に匂ひけり 片枝折れたる宿の桜も」残された宮さまのお嘆きを思うとおいたわしい限りですが、また花が咲くように、宮さまにもまたきっとよい季節が訪れましょう……と、夕霧が慰めの和歌をさり気なく詠みかけます。
御息所も「この春は柳の芽にぞ玉はぬく 咲き散る花の行方知らねば」と返歌。柳の新芽に連なる雫のように私も涙を連ねます、宮の今後もわからないので……と、美しい縁語で悲しみの春を詠います。
夕霧は、なるほどものすごく高尚なお方ではないが、朱雀院の寵愛を受けた更衣らしい、気の利いたお返事だと感心しました。
こう言って帰る夕霧を、若い女房たちは柏木と見比べて噂しています。柏木は夕霧よりも5~6歳年上で、享年32~3歳。でも年の割に非常に若々しく、中性的で繊細な貴公子でした。
夕霧は現在27歳。こちらは逆にどっしりと落ち着いた男らしい雰囲気の中に、源氏譲りの美貌が輝くようです。喪中の家に訪れた美しい弔問客に、若い女房たちは少し慰められた思いでした。
夕霧はその足で頭の中将家を訪問。柏木の弟たちはよく来たと言わんばかりに中へ入れ、父のもとへ案内します。
頭の中将は悲しみのあまりに老けやつれ、ヒゲも伸び放題の変わり果てた姿でした。「派手好きで見栄っ張りで、いつも若々しく陽気だったあの人が……」と、夕霧も大ショックです。
頭の中将も息子の親友の姿を見た途端に涙が止まらなくなります。「こんなにみっともない姿を見せるのは憚られるが、どうにも涙が止まらない」と顔を覆いつつ、夕霧から二の宮の様子や、御息所の「玉はぬく」の和歌を聞いては更にボロボロと泣き崩れるのでした。
「君のお母さん(葵の上)が亡くなった時は、これほど悲しいことはないと思ったものだ……でも女性は社会的に目立つ要素が少ないので、世間の人の言葉で更に悲しみが刺激されるということはなかった。
あの子の死を、帝や朝廷の皆さん方も惜しんでくださっていると聞くたびに、ああ、曲がりなりにも一人前になって活躍していたんだなと思うとねえ……。
でも父親としては、社会人としての功績や出世ぶりより、ただの平凡な息子としての姿が思い出されて、それがたまらなく悲しいのだよ。一体いつになったらこの悲しみが終わるのか……」。社会的な表の顔より、自分の息子としてただそこにいてくれたあの姿が恋しい。なんともリアルな親の本音で、非常に胸を打ちます。
両親がこんな様子で、とても葬儀や法要が行える状態ではなかったため、実は葬儀や法要などは全部、兄弟姉妹が分担して行ってきたのでした。ついには桜の咲くのにも散るのにも気づかない春であったよと、頭の中将は花の終わった庭の桜に目をやります。
「木の下の雫に濡れてさかさまに 霞の衣着たる春かな」。息子に先立たれた逆縁の悲しみに暮れる春だ、と詠むと夕霧も「亡き人も思はざりけむうち捨てて 夕べの霞君着たれとは」。柏木も、まさかご両親に喪服を着せることになろうとは思わなかったことでしょうと続けます。
柏木のすぐ下の弟、紅梅は「恨めしや霞の衣誰れ着よと 春よりさきに花の散りけむ」。なんでこんなに早く死んじゃったんだよ!兄貴のバカ!!と、思いをぶつけます。
両親にこよなく愛され、兄弟姉妹に慕われ、世間の評判も高かった柏木。引き続く法要も非常に立派なものでした。兄弟姉妹一同に加えて、夕霧・雲居雁夫婦も心のこもった供物を捧げます。尽きぬ悲しみの中、夕霧は遺言どおり、その後も足繁く未亡人・二の宮のもとを見舞いに訪れるのでした。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
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