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私たちの体には、外から入ってきたウイルスや細菌のような『異物』を見つけて攻撃し、排除する『免疫』という仕組みがあります。
免疫は、体内を常に見回って怪しいものを探し出し、それを見つけると攻撃を開始しますが、この免疫システムには一つの弱点があります。
それは、がん細胞をなかなか見つけられないという問題です。
なぜなら、がん細胞は元々自分自身の正常な細胞が少しずつ変化してできたものなので、免疫はがん細胞を『異物』として認識しにくいからです。
このため免疫細胞はがんを攻撃せず、結果的にがん細胞がどんどん増殖してしまうことになります。
こうした問題を解決するために、これまで多くの研究者たちが『がんワクチン』の開発に取り組んできました。
がんワクチンの基本的な考え方は、がん細胞だけが持っている特別な目印をまず見つけ、その目印を免疫に覚えさせることによって、免疫細胞にがん細胞を『敵』として認識させるというものです。
この目印は『抗原』と呼ばれることもあり、多くはがん細胞が特有に持っているタンパク質がその目印になります。
つまり「このタンパク質(抗原)を持つ細胞ががん細胞だよ」と免疫に教え込むのが従来のがんワクチンの仕組みなのです。
これまでのがんワクチンには、大きく分けて二つのタイプがあります。
一つ目は、多くの患者に共通しているがん細胞の目印を見つけ、それをワクチンにするという方法です。
例えば、ある種類のがんの患者全員に使えるワクチンが作れれば、多くの人を救える可能性があります。
ただ、残念ながら、がんは種類ごと、さらには患者ごとにも異なる特徴を持つことが多く、みんなに共通する目印を見つけることは現実にはとても難しいとされています。
もう一つの方法は、患者一人一人のがん細胞を個別に調べて、それぞれに最適な目印を探し出し、いわば『オーダーメイド』でワクチンを作るというものです。
これは患者ごとに違うがん細胞にしっかりと狙いを定められる反面、一人一人に別々のワクチンを作るためには多くの時間やお金がかかり、ワクチンが完成する頃には、がんが進行してしまうというリスクもあるのです。
そこで研究チームは、「そもそもがん細胞の目印を探すことに時間をかけずに、もっとすぐに使える新しいワクチンが作れないか?」と考えました。
これが今回の研究で提案された、『特定の標的に依存しない』という新しい発想のアプローチです。
米フロリダ大学のエリアス・サイア博士らの研究チームは、「がん細胞ごとに違う目印を探し当てるのではなく、免疫そのものを直接強く刺激することで、まず体全体の免疫力を活性化させてしまえば、結果的にがんも攻撃できるのではないか」と考えました。
例えて言うなら、今までは「敵(がん細胞)の顔写真を探してそれを警察(免疫)に渡して追わせていた」方法だったのを、「写真がなくても、とにかく警察自体を強く目覚めさせて、犯人を見つけ出させる」方法に変えたわけです。
サイア博士は、特定のがんの目印に依存しない一般的なmRNAでも免疫の反応を強く引き起こせる可能性があり、それによってがんを攻撃する力を高めることができると考えました。
こうして生まれた今回の方法は、がんワクチン研究において、これまでの二つの方法とは全く異なる『第三の新しい道』として注目されています。
第三の道を行く新しいワクチンはどんな仕組みで働くのでしょうか?
ここでは順を追って丁寧に説明していきましょう。
まず、この研究のカギとなった「mRNAワクチン」の仕組みから理解する必要があります。
mRNAワクチンとは、簡単に言うと「体の細胞に特定のタンパク質を作らせるための設計図を送り込むワクチン」です。
人間の細胞は通常、DNAに書かれた情報をmRNA(メッセンジャーRNA)という物質に書き写し、それを元にタンパク質を作っています。
この仕組みを利用して、外からmRNAを体内に入れれば、人為的に狙ったタンパク質を作らせることができるのです。
実際にこの技術は、新型コロナウイルスのワクチンとして世界中で使われ、パンデミックの克服に大きく貢献しました。
ただ新型コロナワクチンの場合、mRNAがあまりに強く免疫に反応すると体に負担がかかるため、「化学的に加工したmRNA(modRNA)」を使って過剰な反応を防いでいました。
ところが今回の研究チームは、あえてこの加工をせず、自然の形に近い「非改変型mRNA(uRNA)」というタイプのmRNAを使うことを考えました。
なぜそのようなことをしたのでしょうか?
実は、人間の免疫細胞には「RNAの形を見分けるセンサー」が備わっており、加工されていないuRNAが体に入ってくると、このセンサーが「これは危険なRNAウイルスかもしれない!」と強く反応します。
その結果、免疫細胞は緊急事態を知らせる信号物質を放出します。
この物質こそが、今回の研究で重要な役割を果たす「I型インターフェロン(IFN-I)」です。
IFN-Iは、いわば体内で緊急事態を知らせる非常ベルのような存在で、ウイルスが侵入した時に免疫細胞を一斉に呼び集める役割を持っています。
研究チームはこのIFN-Iをうまく利用して、がん細胞に対する免疫の攻撃力を引き上げようとしたのです。
通常、免疫細胞はがん細胞が異物だと気づきにくいのですが、IFN-Iという非常ベルが鳴ると「体内に緊急事態が起きている!」と気づき、がん細胞が潜む現場にも集まりやすくなります。
しかし、がん細胞も簡単に倒されるわけではありません。
がん細胞の中には、免疫細胞に対してブレーキをかけることで攻撃から逃れているものがあります。
そのブレーキの正体が「PD-1/PD-L1」と呼ばれる分子です。
そこで研究チームは、すでに医療現場で使われている「免疫チェックポイント阻害薬」という薬を同時に使いました。
この薬は、がん細胞が持つブレーキ分子(PD-1/PD-L1)の働きを妨げ、免疫細胞が自由に攻撃できる状態を作ります。
つまり今回の研究は、mRNAワクチンで体内の非常ベルを鳴らして免疫細胞を一気に集め、その上でチェックポイント阻害薬によってブレーキを解除する、いわば「アクセルとブレーキ解除の二段構え」で免疫を強力に働かせる作戦だったのです。
この戦略により、免疫細胞ががん細胞を見つけやすくなる効果も確認されました。
具体的には、IFN-Iが放出されることでがん細胞の表面に「MHC-I」や「PD-L1」といった目印分子が増え、それを手がかりに免疫細胞がより正確にがん細胞を見つけ出せるようになることがわかったのです。
こうした戦略による実験の結果は非常に驚くべきものでした。
まず研究チームは、皮膚がんの一種である「悪性黒色腫(メラノーマ)」というがんを持つマウスで、このmRNAワクチンとチェックポイント阻害薬を組み合わせることで、がんが非常に強く縮小することを確認しました。
さらに驚くことに、皮膚がんだけでなく、骨にできるがんである「骨肉腫」や脳にできるがんである「脳腫瘍(グリオーマ)」など、一般には免疫細胞が効きにくい「冷たい腫瘍」と呼ばれるがんに対しても、このuRNAワクチンだけで効果を発揮することが分かりました。
具体的には、肺への転移したがん細胞の数が減ったり、生存期間が明らかに伸びたりしたのです。
これらの効果はIFN-Iが働くことによってのみ起きることも確認されました。
実際、IFN-Iの受け取り口となる「IFN-I受容体」をブロックすると、効果は消えてしまったのです。
では、なぜこのような効果が起きたのでしょうか?
ポイントは「眠っていたT細胞が一斉に目を覚ましたこと」にあります。
体内には、本来がん細胞を攻撃できるはずなのに、何らかの理由で活動を止められ、サボっていたT細胞が存在します。
しかし、このワクチンによってIFN-Iという非常ベルが強力に鳴ると、このサボっていたT細胞たちが次々と活動を開始しました。
そして最初に集まったT細胞ががん細胞を一部破壊すると、その壊れたがん細胞から新たな「がん特有の目印(抗原)」がたくさん放出されます。
すると免疫細胞は、次はその新しく見つけた抗原をターゲットにし、さらに攻撃範囲を広げてがん細胞への攻撃を続けるようになりました。
これが「エピトープ・スプレッディング(攻撃対象の拡大)」と呼ばれる現象であり、この現象も研究チームによってはっきりと確認されました。
今回の研究チームは、これらの結果をふまえて、「特定の目印を一つ一つ探し出して狙い撃ちするのではなく、免疫自体を強く目覚めさせることで、結果的にがんへの攻撃範囲が広がるという方法もある」と報告しています。
これまでのがん治療研究とは異なるこの新しい考え方は、がん免疫療法の可能性を大きく広げるものとして、世界中で注目されています。
今回の研究成果は、これまでのがんワクチン研究とは異なる新しい可能性を示す、とても重要なものです。
従来のがんワクチンは、がん細胞に特有の目印(抗原)を一つ一つ探し、その抗原をターゲットにして免疫細胞ががん細胞を攻撃できるように仕向ける方法を取っていました。
しかしこの方法には、すでに説明したように「がん細胞の目印探し」という難しい問題があります。
どんなに頑張っても、すべての患者に共通の目印を見つけるのは困難ですし、個別に目印を探すと時間とコストが大きくかかります。
ところが今回の研究チームは、目印をあえて探さずに、「免疫の働きそのものを直接強めることで、結果的にがんを攻撃できる」というまったく新しい方法を提案しました。
このような考え方を共同研究者のデュエイン・ミッチェル博士は、「患者自身の免疫を、特定の目印にとらわれることなく呼び覚ますことができる可能性がある」と表現しています。
もしこの考え方が今後の研究で人間に対しても有効であると証明されれば、がん治療の現場は大きく変わるかもしれません。
なぜなら、患者一人一人に合わせて特別なワクチンを作るのではなく、あらかじめ準備しておいた共通のワクチンを使えるようになるからです。
このように、事前に準備できてすぐに誰にでも使えるタイプの治療法のことを「オフ・ザ・シェルフ(棚からすぐに取り出せる)」型と呼びます。
がんを特異的に標的とするのではなく、強力な免疫反応を刺激するように設計されたワクチンを用いることで、非常に強力な抗がん反応を誘発できることを発見しました。したがって、この研究はがん患者全体に広く応用できる大きな可能性を秘めており、市販のがんワクチンの開発につながる可能性さえあります。
デュアン・ミッチェル医学博士
ただし、ここで一つ注意しなくてはいけない点があります。
今回の研究は、まだ人間に対して行われたものではありません。
現時点ではマウスや犬といった動物を使った前臨床試験の段階であり、これから人間での臨床試験が始まることになります。
このため、この方法が実際に人間の患者さんで効果を発揮するかどうかについては、まだはっきりとは分からない状況なのです。
特に、がん治療に使われる新しいワクチンや薬は、動物では効果があっても人間では思ったほど効果がないということもよくあります。
この点は今後の研究の進展を注意深く見守る必要があるでしょう。
しかし、今回の研究が注目されるもう一つの理由があります。
研究チームは、体の免疫を活性化させるための『非常ベル』として、ヒトのCMVというウイルスが持つ「pp65」というタンパク質をuRNAを使って体内で作らせました。
すると、マウスの体は実際には感染していないのにウイルスに感染したと錯覚し、強い免疫反応を起こしました。
そしてこの免疫反応によって、がん細胞への攻撃力も高まることが確認されました。
またこの効果は単に一度だけがん細胞を倒すというだけではなく、再び同じがん細胞が現れた時にも対応できるという記憶力を持つことも分かりました。
このように、一度免疫ががんを見つけて攻撃すると、その攻撃対象が次第に広がっていく現象を「エピトープ・スプレッディング」と呼びます。
つまり、最初は特定のがん細胞だけを狙っていなくても、一度免疫を強く動かせば結果として様々ながん細胞に対する攻撃力が育っていくのです。
今回の研究が示したのは、こうした方法で免疫を刺激し続けることによって、「がん」を『見えない敵』から『見える敵』に変え、体自身が備えている免疫の力を最大限に活用するという新しい考え方です。
これは、将来的にさまざまな種類のがんに対応できる可能性を秘めており、今後のがん免疫療法の発展にとって大きな前進となることでしょう。
もちろん、こうした方法が実際の医療現場で使われるまでには多くの課題が残っています。
たとえば、動物実験で成功したからといって人間で同じ結果が得られるとは限りませんし、免疫の働きを強く刺激すれば、健康な細胞にまで攻撃が及ぶという副作用のリスクも考えられます。
また、がんの種類や患者の体質によって効果に差が出る可能性も十分にあります。
それでも今回の研究が画期的なのは、「がん細胞の特定の目印を探すことなく、免疫自体を強く刺激すればがんに対する幅広い効果が得られる可能性がある」という証拠をはじめてはっきりと示したことにあります。
これは、これまでの「がん治療の常識」を覆す新しい視点であり、世界中の研究者たちに新たな希望を与えています。
将来的には、体が本来持つ防衛力である免疫力を最大限に活用してがんと闘う新たな治療法が登場し、『がん治療の新時代』が始まることになるかもしれません。
今回の研究成果は、その大きな可能性に一歩近づく重要な一歩なのです。
元論文
Sensitization of tumours to immunotherapy by boosting early type-I interferon responses enables epitope spreading
https://doi.org/10.1038/s41551-025-01380-1
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部