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私たちの脳は、記憶を作ったり、友達とおしゃべりしたり、音楽を楽しんだりと、人生のあらゆる場面を支えています。
その脳の健康を守るカギの一つが、「タウタンパク質」という小さな分子です。
普段のタウは、神経細胞の中で細胞の骨組みを安定させたり、情報伝達をスムーズにしたりして、私たちが当たり前の生活を送るために大切な役割を果たしています。
ところが年齢を重ね、アルツハイマー病が進むと、このタウタンパク質にリン酸という物質が過剰にくっつき、「リン酸化タウ(p-tau217)」という異常な状態に変化します。
この変化したリン酸化タウタンパク質は神経細胞の中で絡まった糸くずのような「タングル」を作り出し、脳の機能を次第に損なっていきます。
やがて記憶が薄れたり、日常生活が困難になったりするアルツハイマー病の症状が現れてしまうのです。
最近では、このリン酸化タウタンパク質の血液中の濃度を測ることが、アルツハイマー病の早期発見にも役立つとして注目されています。
つまり、このリン酸化タウタンパク質の数値が高いと、多くの場合、認知症の危険が迫っているサインだと考えられてきました。
しかし不思議なことに、胎児や生まれたばかりの赤ちゃんでも、このタウタンパク質のリン酸化が活発であることが動物実験から示されていました。
そこで、国際的な研究チームは人間も同じである可能性を調べることにしました。
もし人間の赤ちゃんにアルツハイマー病と深くかかわるリン酸化したタウタンパク質が多く存在する場合、リン酸化タウタンパク質の量がアルツハイマー病と関連するという既存の単純な予測が成り立たなくなる可能性もあります。
本当に人間の赤ちゃんでも、このタンパク質は多く存在したのでしょうか?
本当に人間の赤ちゃんの体内にも、アルツハイマー病の指標であるリン酸化タウタンパク質が大量に存在しているのでしょうか?
その答えを得るため、研究者たちはまずスウェーデン、スペイン、オーストラリアという3つの国で、幅広い年代層から約460名もの血液サンプルを集めることから始めました。
対象となったのは、生まれたばかりの赤ちゃん(正期産児)、予定より早く生まれた赤ちゃん(早産児)、若者や健康な成人、高齢者、そして実際にアルツハイマー病と診断された高齢患者たちです。
特に今回は、人間の新生児でこのリン酸化タウタンパク質の量を直接血液から調べるという世界で初めての試みであり、研究チームは慎重かつ期待を持って調査を進めました。
すると驚くべき結果が出ました。
生まれたばかりの赤ちゃんの血液中に含まれているリン酸化タウタンパク質の量は、あらゆる年代の人々の中で最も高く、なんとアルツハイマー病の患者の約3倍近くも存在することが判明しました。
(※リン酸化タウタンパク質の血中濃度はアルツハイマー病患者が3.68 ± 1.75 pg/mLに対し新生児は10.19 ± 3.92 pg/mLにも達していました。なお健康な若年成人(18~25歳)では1.33 ± 0.69 pg/mLで、健康な高齢成人(70歳以上)では1.78 ± 1.31 pg/mLとなりました。)
さらに調査を進めると、この傾向は予定より早く生まれた赤ちゃんほど強く、より早産で生まれた赤ちゃんほどリン酸化タウタンパク質の濃度が高いという傾向が明らかになりました。
しかし、この値は出生後から徐々に低下を始め、生後3〜4か月も経つ頃には若い成人と同じくらいの低いレベルに落ち着いていました。
健康な10代以降の成人の間では、このタンパク質の量はずっと低いまま安定し、再び高くなるのはアルツハイマー病を発症した高齢者になってからでした。
しかし、驚くことに、そのアルツハイマー病患者でさえも、新生児に見られた「桁外れな高濃度」には全く及ばなかったのです。
つまり、人は生まれた瞬間と人生の晩年というまったく正反対の時期にこのリン酸化タウタンパク質が急上昇し、その間の健康な人生の大部分では非常に低いレベルで維持されるという、はっきりとしたU字型のパターンが浮かび上がったのでした。
今回の研究によって、「アルツハイマー病の目印として恐れられてきたリン酸化タウタンパク質が、実は生まれたばかりの赤ちゃんの脳にとっては必要不可欠な存在である可能性」が示されました。
これまでは、リン酸化タウタンパク質が脳に存在することは悪い兆候と考えられていましたが、この研究でまったく別の側面が明らかになったのです。
つまり赤ちゃんの脳では、このリン酸化タウタンパク質は神経細胞の成長や新しい神経回路を築くために役立ち、正常な脳の発達を助けているというのです。
ところが不思議なことに、高齢者になると同じ物質が逆に神経細胞を傷つけ、アルツハイマー病の症状を引き起こします。
人生の最初と最後という、まったく異なる時期でまったく異なる役割を持つ同じタンパク質――研究者たちはこの矛盾に大きな謎と希望を見出しています。
赤ちゃんの脳がなぜこれほど大量のリン酸化タウタンパク質にさらされても健康でいられるのか、まだはっきりとは分かっていません。
研究チームは、新生児期の脳には、このタンパク質が凝集して悪影響を与えるのを防ぐ特別な仕組みが存在しているのではないかと考えています。
論文内で述べられている「予想」
- 新生児期におけるリン酸化タウが高レベルで存在するにもかかわらず凝集やタングル形成が見られないことは、成人とは異なる生理的メカニズムが働いている可能性。
- 胎児期および新生児期にリン酸化タウが神経細胞の成長や神経回路形成など、正常な脳の発達を支える役割を果たしている可能性。
- 新生児期においてリン酸化タウのレベルが高い状態が維持されるのは、キナーゼやホスファターゼ(リン酸化を調節する酵素)の成熟が進行しているためである可能性。
つまり赤ちゃんの体では成人と異なる調節機構が働いており、赤ちゃん特有の酵素バランスがリン酸化タウタンパク質が高濃度でも安全な状態で維持している可能性があるという予想です。
もしこの「赤ちゃんの脳を守る仕組み」を解き明かせれば、その方法を大人の脳でも再現することで、アルツハイマー病の進行を防ぐ新たな治療法が開発されるかもしれません。
実際にこの研究の中心的役割を担ったフェルナンド・ゴンザレス=オルティス氏は「新生児の脳がリン酸化タウタンパク質を安全にコントロールしている秘密が分かれば、アルツハイマー病を遅らせたり止めたりする画期的な治療が実現するかもしれない」と語っています。
さらに今回の研究は、アルツハイマー病研究の常識にも挑戦しています。
これまでアルツハイマー病では「アミロイドβ」という別のタンパク質が先に蓄積し、その影響でリン酸化タウタンパク質の異常が生じると考えられてきました。
ところが新生児にはアミロイドβが全く蓄積していないにもかかわらず、リン酸化タウタンパク質が極めて高いレベルで存在していることから、これまでのアミロイドβを起点とする考え方だけでは説明できない新たなメカニズムが示唆されたのです。
こうした結果から、リン酸化タウタンパク質の血液検査が臨床現場で普及しつつある中、「単に数値が高ければ悪い」という単純な判断を見直す必要性も指摘されています。
実際、血中リン酸化タウタンパク質検査は米国FDAにより既に承認されており、乳幼児期の正常な脳の発達過程としてこの数値が高くなるケースもあることを、医療関係者や研究者は認識しておく必要があります。
今回の発見は、赤ちゃんの脳に秘められた謎と可能性を新たに示しました。
年齢を重ねれば脳を傷つけることになる分子が、赤ちゃんにとっては脳の成長に欠かせない存在であるという意外な事実は、私たちが「成長」と「老化」という生命の本質について考え直す大きなきっかけを与えてくれるでしょう。
研究者たちは今後、この赤ちゃんの脳が持つ不思議な防御のメカニズムをさらに解明し、将来的にはアルツハイマー病をはじめとするさまざまな認知症への新たな治療法や予防策を生み出すことを期待しています。
元論文
The potential dual role of tau phosphorylation: plasma phosphorylated-tau217 in newborns and Alzheimer’s disease
https://doi.org/10.1093/braincomms/fcaf221
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部