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私たちは日常生活で、誰もが同じ世界を同じように見ていると思いがちです。
道を歩くときに見える建物や標識、部屋の中にある机や棚、そうした景色が目に映るのは当然だと感じています。
ところが、実は同じ景色を見ても、どのようにそれを認識するかは人によって異なることがあります。
その理由の一つに、「育った環境」が関係しているのかもしれません。
心理学者たちは以前から、視覚というものは人類共通の仕組みでできているけれど、その使われ方や感じ方は環境や文化の影響を受ける可能性を指摘してきました。
その代表的な考え方に、「大工世界仮説(Carpentered World Hypothesis)」と呼ばれるものがあります。
これは簡単に言うと、都会のような「まっすぐな直線や直角」が多い環境で育った人と、自然が多くて直線的なものが少ない環境で育った人では、目に映るものの「感じ方」が違うかもしれないという考えです。
たとえば、都会の人は、普段からビルや窓、ドアのように長方形ばかりに囲まれています。
すると脳は知らず知らずのうちに、「線を見れば長方形だ」と推測してしまう習慣がついてしまうかもしれません。
クオリア(主観的な意識体験)との違い
今回の研究では、育った環境によって同じ錯視図形が「円に見えたり」「長方形に見えたり」と、見る人によって全く異なるという現象が示されました。この結果を受けて、私たちはつい「では感じ方の個人的な違い、つまりクオリアの話なのか?」と思うかもしれませんが、今回の研究で示された現象とクオリアとは少し性質が異なります。
クオリアとは、主観的な意識体験に伴う「感じ」のことを指します。例えば「赤色を見たときのあの赤さの感覚」や「チョコレートを食べたときの甘さの感じ方」など、本人にしか知り得ない主観的な感覚のことです。クオリアは個人の内面的な感覚体験であり、他人と共有することが難しいため、科学的な研究が困難だとされています。
それに対し、今回の研究が示しているのは、脳が視覚情報を「処理する仕組み」そのものが育った環境に影響されているという現象です。つまり、環境や文化の違いが視覚情報の処理段階(脳の視覚系の初期設定)を変えてしまい、「同じ入力を与えられても、脳がそもそも違うものとして解釈してしまう」ということです。これは、クオリアが扱う「同じ赤色を見ても感じ方が違う」という主観的な感覚の差異とは異なり、「最初から脳に届く情報の扱い方自体が違う」という認知処理のメカニズムの違いを指しています。
つまり、クオリアが「同じものを認識した上での感覚的な差」を議論する概念であるのに対し、今回の研究で扱われているのは「そもそも脳が認識する対象自体が異なってしまう」という認知や知覚レベルの違いを示しています。この違いを理解すると、「同じ世界を見ているつもりでも、実は根本的に異なる認識世界を生きている可能性がある」という研究の驚きがより明確になるでしょう。
実際、過去の研究でもミュラー=リヤー錯視(矢羽根の向きで同じ長さの線が長く見えたり短く見えたりする錯視)を使った実験で、文化によって錯視の見え方が異なるということが報告されています。
しかし、この大工世界仮説はずっと前から知られていたにもかかわらず、本当に文化や環境が視覚の根本的な仕組みにまで影響するのかどうかについては、いまだに結論が出ていませんでした。
むしろ多くの科学者は、「目の基本的な仕組みは世界中どこでも同じだろう」と考えてきたのです。
そこで今回の研究チームは、この問題を解決するために「育った環境によって目の初期設定が書き換えられるのか?」という大胆な問いを立て、今までにない規模での実験に取り組みました。
都市で育った人々と伝統的な村で育った人々に、同じ錯視画像を見せて、その見え方が本当に違ってくるのかを実際に調べたのです。
本当に育った環境が目の見え方を変えてしまうのでしょうか?
育った環境が目の初期設定を変えるのか?
謎を解明するために研究者たちはまず、まったく異なる環境で育った3つのグループを集めました。
一つ目のグループはイギリスとアメリカの大都市で育った人々です。
二つ目のグループはナミビアの地方都市(準都市的環境)で暮らす人々。
そして三つ目のグループは、ナミビア北部で伝統的な暮らしを続けるヒンバ族の村人たちです。
この3つのグループに共通して、ある特別な「錯視」の図を見せました。
錯視というのは、目の錯覚を利用して同じ絵でも見る人によって全然違うものに見える図のことです。
今回特に重要だったのが「コファー錯視(Coffer Illusion)」と呼ばれる画像でした。
この図は、一見すると多くの長方形が格子のように並んでいるだけの模様です。
しかし、じつはその中にたくさんの「円」も隠されています。
面白いことに、最初に何が見えるかは人によってかなり違ってくるのです。
結果ははっきりと分かれました。
イギリスとアメリカの都市部で育った人たちの97%は、「長方形がたくさん並んでいる」と最初に答えました。
彼らのほとんどが円に気づくのに時間がかかり、円が見えるまで苦労したといいます。
一方、ヒンバ族の村人たちはまったく逆で、96%がすぐに「円がたくさん見える」と答えました。
そのうちの半数は円しか認識できず、どれだけ長く図を見ても長方形には気づかなかったのです。
残りの半数は円のあとで「長方形も見える」と気づきましたが、最初に見える形はあくまで円だったのです。
興味深いのは、ナミビアの地方都市に住むグループの結果が、この両者の中間になったことです。
地方都市に住む人々の多くは最初に円を認識しましたが、しばらく見ているうちに長方形にも気づく傾向がありました。
つまり、都会的環境と伝統的な村落環境のちょうど真ん中に位置するような見え方を示したのです。
このように、育った環境によってまったく同じ図でも「見えるもの」が正反対になることが明らかになりました。
丸しか見えないどういう意味か?
ここで注意したいのは、「丸しか見えない」というのは、「長方形の模様がまったく認識できない」ということではなく、「まず最初に強く見える形が円である」という意味です。
つまり、都会の人にとって一瞬で認識できる「長方形」は、村の人にとっては「なかなか見えない、見えにくい模様」であり、逆に村の人にとって強く見える「円」は、都会の人にとっては「なかなか気づきにくい、あるいは後になってようやく見えてくる模様」だということです。ヒンバ族の参加者のうち半数近くは、長く見続けても「長方形」をまったく認識できず、「円しかない」と感じていたほどでした。彼らの視覚は普段から「曲線的な形」を強く認識するように慣れているため、錯視画像の中に埋め込まれた円が最初からくっきりと浮かび上がってしまい、長方形という別の見方が難しくなっていたのです。
つまり、「丸にしか見えない」とは、「脳がまず円を最初に強く認識してしまい、長方形は脳の中でかき消されてしまう状態」ということです。これは、「普段目にしている形状によって、脳が特定のパターンを優先的に選ぶようになる」という現象の一例と言えるでしょう。
研究者たちは、他にも数種類の錯視画像を使って調査を進めました。
その一つが「カフェウォール錯視(Café Wall Illusion)」と呼ばれるものです。
たとえば上の図はカフェウォール錯視の一種で、本来まったく平行な線が「階段状の市松模様」のせいで傾いて見える錯覚として知られています。
イギリス・米国の都市部の参加者とナミビアの準都市住民の大半(約9割以上)は「線が斜めにずれている」と即答しました。
ところが伝統的なヒンバ族の村人はその逆で、6割が「線はまっすぐで傾いていない」と答え、それらの人々は錯視自体をほとんど感じていませんでした。
おそらく普段から直線的な建物や道路に囲まれているかいないかが影響しているのかもしれません。
さらに、研究者たちは「ゲシュタルト補完」という種類の錯視でも実験を行いました。
ゲシュタルト補完というのは、一部が欠けている図形でも脳が自動的に全体像を補って「あるはずの形」を見てしまう現象です。
例えば、少しずつ欠けた円が3つ並んでいるだけなのに、脳は勝手にそこに四角や円、三角形があるように感じてしまいます。
この実験でも結果は明白に別れました。
イギリスやアメリカの参加者の93%はすぐに隠れた形を見つけ、最後まで図形が見いだせなかった人はわずか1%に過ぎませんでした。
しかしヒンバ族の村人ではすぐに隠れた画像に気付けたのは10%しかおらず、最後まで分からなかったひとは78%にも及びました。
これはヒンバ族の人々はバラバラのパーツだけを見続ける傾向強かったためだと考えられます。
つまり、同じものを見ても脳がどのように形をまとめるのか自体が育った環境に左右される可能性があるのです。
研究チームはこのような錯視画像を合計6種類使って実験しましたが、そのうち4種類で都市的環境と伝統的環境の間にはっきりした違いが見つかりました。
特にコファー錯視の結果がもっとも劇的で、ロンドン大学の心理学者ジュールズ・ダビドフ氏もこの結果について「このコファー錯視こそが人々を圧倒する実験です。文化の違いでこれほどはっきりと見え方が異なるという結果は本当に驚くべきことです」と述べています。
この実験の結果は、私たちが普段「見ているもの」は本当に同じものなのか?という根本的な問いを改めて投げかけています。
今回の研究によって、私たちが「何を最初に見るか」は、育った環境や文化の影響を大きく受けている可能性が示されました。
普段「同じ世界を見ている」と思っている私たちは、実はそれぞれ「自分の文化のフィルター」を通して景色を見ているのかもしれません。
図から長方形ではなく円を感じたヒンバ族の女性、ウアプワナワ・ムヘニジェさんは、「都会で育った人たちが丸いものを見つけられないなんて本当にびっくりしました。どうして見えないのか本当に不思議です」と語っています。
この発言が示す通り、自分にとってはごく普通に見えるものでも、別の環境で育った人には「存在しないもの」になってしまうことがあります。
私たちが「見える」か「見えない」かという単純な感覚に、これほど深く文化が入り込んでいることに驚きを隠せません。
では、この違いは脳のどのような仕組みで起きているのでしょうか?
今回の実験から考えられるのは、脳が視覚情報を最初に処理する段階で、すでに育った環境が影響を与えている可能性です。
都市のように直線や角ばった形ばかり見て育った人は、線を見ると無意識に「これは四角形だ」と判断する癖がついてしまっているのかもしれません。
反対に、伝統的な村のように丸みを帯びた形が身の回りにあふれている環境で育った人は、線を見るとまず「円だ」と自然に判断してしまうのでしょう。
これはまるで「脳の中にある視覚の初期設定が、育った景色によって書き換えられている」ようなものです。
この発見は、これまでの視覚研究や人工知能の研究にも重要なヒントを与えます。
多くの視覚理論やAIは、人間がどのように世界を見ているかを「普遍的」だと思って作られています。
しかし、もし「育った環境」が視覚の基本設定を左右するなら、現在のモデルは「世界のほんの一部」しか反映していない可能性があります。
研究者たちは「都会的な環境に偏った研究ばかりを続けていると、他の環境で育った人々が見ている世界を完全に見逃してしまう危険性がある」と警鐘を鳴らしています。
確かに、人工知能に私たちが見ているものを教える際も、こうした文化や環境の違いを無視してしまうと「誰にでも見えるもの」を作ることは難しいでしょう。
例えば、AIが「長方形しか見えない」ように学習してしまったら、ヒンバ族のような人々には「ちゃんと使えない」ものになってしまうかもしれません。
今回の研究は、「私たちは同じ世界を見ている」という常識に疑問を投げかけ、「見える」ということの意味をもう一度考えさせてくれます。
まだ発見されていない世界の見方の違いがあるかもしれない
今回の研究では、錯視画像を使って「長方形」と「円」の認識が育った文化や環境で大きく異なることが明らかになりました。しかし、視覚における文化や環境の影響は、今回確認されたものだけではなく、まだまだ私たちが気づいていない形で多く存在しているかもしれません。もしかすると、日常生活の中でごく当たり前に見えていると思っている色や形、奥行きや動きまでも、文化的背景が異なる人々の間では、微妙に違った形で処理されている可能性があります。これらの違いは目に見えにくく、自分自身の感覚に深く馴染んでしまっているため、なかなか自覚できません。もし私たちが気づいていないだけで、世界中の人々が本当にそれぞれの脳で違った「視覚的な初期設定」を持っているのだとすれば、私たちは同じ景色を見ながら、実は微妙に異なる世界を生きていることになります。このような違いを丁寧に見つけていくことは、人間が世界をどう認識しているのかという理解を深める大きな手掛かりになるかもしれません。つまり、この研究で明らかになったのは、視覚という広大な世界の中のほんの一部分に過ぎず、私たちがまだ気づけていない「見え方の差異」はまだまだ無数に眠っているのかもしれません。
錯視は単なる目のトリックではなく、私たちの脳が育った環境によって深く「チューニング」されている証拠です。
つまり、私たちの目は、ただ世界を写し取るだけのカメラではなく、「文化によって調整されたフィルター」のようなものなのです。
この驚くべき発見は、私たちにこう問いかけているのかもしれません──「あなたにとっての『見える』は、本当にみんなにとっての『見える』と同じものですか?」と。
今後の視覚研究は、この文化や環境による違いをもっと深く探求し、視覚のモデル自体を再検討することになるでしょう。
元論文
Visual illusions reveal wide range of cross-cultural differences in visual perception
https://doi.org/10.31234/osf.io/gxzcp_v3
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部