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細菌やアメーバのような単細胞生物たちは、自力で液体の中を目的の方向へ移動することができます。
顕微鏡でゾウリムシやミドリムシを見たことがあるなら、彼らの思いのほかの素早い動作に驚いたことがあるでしょう。
こうした単細胞生物の体構造は極めて単純で、脳や神経のような中央の制御装置を持ちません。
多細胞生物であれば、脳が各部位(筋肉など)に命令を出すことで体を動かす仕組みが理解できます。
しかし単細胞の微生物には命令を下す司令塔がなく、一体どうやって協調的な運動を実現しているのでしょうか。
研究チームはこの根源的な疑問に着目しました。
ウィーン工科大学やウィーン大学、米タフツ大学の研究者からなる国際チームは、「各部分がごく簡単なルールに従うだけで、全体として滑らかな泳ぎが生まれる条件は何か」という問題を解明しようとしたのです。
筆頭著者のベネディクト・ハートル氏(ウィーン工科大学・タフツ大学)は「単純な微生物はいくつかの部分から構成されており、ちょうど真珠を紐でつないだようなものだと考えられます」と述べ、脳がなくても各部位同士の相互作用で運動が生まれる可能性について発想を語っています。
このように単細胞生物を「数珠つなぎのビーズ」に見立てて、各部位の動きの原理を探ることが本研究の目的でした。
なぜ脳がない単細胞生物でも優雅に泳ぐことができるのでしょうか?
最新の顕微鏡解析やバイオフィジクス研究によって、ゾウリムシやアメーバのような単細胞でも「からだ」が一枚岩ではなく、繊毛、べん毛、細胞骨格、膜下のモータータンパクなど複数の“部品”で組み上げられていることがわかってきました。
興味深いのは、それぞれの部品が独立して外界の刺激を受け取り、ごく局所的なルールで反応を決める点です。
たとえば化学物質の濃度勾配を感じる受容体はべん毛モーターに信号を送り、べん毛は回転方向を変えて細胞をくるりと向き替えますが、その指示は「隣の部品」までしか伝わりません。
にもかかわらず、細胞全体としてみると最短経路で栄養源へ向かう軌跡を描き、障害物があっても滑らかに回避できます。
さらに、化学ネットワークの「記憶効果」によって刺激履歴を数分単位で保持し、次の行動を先読みする学習様式まで備わることが報告されています。
つまり単細胞生物は、分散した多数の簡単な計算ユニットが協調して「即席の脳」を構築していると言えるのです。
そのしくみは、中央処理では再現の難しい特性を持ちます。
たとえば分散処理は情報を一極集中させずに並列で流すため、シナプス式の脳型ネットワークに比べて遅延が少なく、環境変化への初動が速いという利点があります。
特に故障体制は注目に値します。
分散型処理利ステムはリンクが途切れたり一部のモーターが壊れても、残る部品が自律的に役割を補完し、泳ぎを維持する堅牢性まで備わる点は脳型システムに勝る場合すらあります。
単細胞の泳ぎが優雅に見えるのは、脳に頼らずとも無数の小さな意思決定が瞬時に重なり合い、一つの統合された行動へと昇華している証しと予測されています。
ただ先に述べた通り現状、その予測を十分に証明することはできていません。
そこで研究チームはこの問題をコンピューターシミュレーションで調べることにしました。
まず微生物のモデルとして、複数の球状の粒(ビーズ)を糸でつないだ「ビーズ連結体(数珠状の鎖)」を仮想的に作り出しました。
これは細胞の内部にある各種の要素をモデル化したものとなります。
各ビーズは隣のビーズとの腕を縮めるたり伸ばしたりすることで動くことができますが、ビーズ自体に与えられる情報は自分の両隣にいるビーズの位置だけです。
生物全体の状態や遠く離れた部分の情報はまったく分からない仕組みになっています。
準備が済むと研究者たちはシミュレーションを開始しました。
すると、小さな粒が並んだだけの構造でも、適切な動かし方によって効率的に泳げることが示されました。
次に研究チームは、数理モデルに「学習する能力」を持たせて自律的に泳ぎ方を習得させることを試みました。
具体的には、仮想微生物の各ビーズをごく小さな人工知能(AI)と考え、試行錯誤させることで最適な行動ルールを見つけ出したのです。
このAIはパラメータが60個程度の小規模なニューラルネットワーク(人工の神経回路網)で構成されています。
(※パラメータが60というのはシナプスのような結合(重み+バイアス)が60個存在するという意味です。そのためニューロンに換算するとせいぜい数十個程度となります)
ハートル氏は「単細胞生物にはもちろんニューロン(神経細胞)はありません。しかし、細胞内にごく簡単な物理・化学的な回路を作ることで各部位に特定の動作を起こさせるような単純な制御系を実現することは可能です」と説明しています。
つまり、実際の微生物でも神経がなくとも化学反応などによる簡単な制御メカニズムが各部位に備わっていると考えれば、このモデルと矛盾しないわけです。
研究では、この分散型AIを遺伝的アルゴリズム(進化的アルゴリズム)と呼ばれる手法で最適化しました。
コンピューター内で仮想微生物を粘性のある液体に何度も“泳がせ”、各ビーズの制御コード(泳ぎ方のルール)を世代ごとに改良していったのです。
その結果、ごく単純な仕組みから驚くほど安定した泳ぎ方が獲得できることが示されました。
ハートル氏は「この極めて単純なアプローチで、非常に頑丈かつ効率的な泳ぎの動作が実現できることを実証しました。
中央の制御装置がなく仮想微生物の各部分はそれぞれ簡単なルールに従っているだけですが、全体としては効率的な移動に十分な複雑な挙動が発現したのです」と述べています。
今回の研究により、脳も神経も持たない単細胞生物が各部位の分散的な動きだけで巧みに泳げる理由が初めて100個規模で定量的に示さました。
これは非常にシンプルな生物システムの複雑な行動原理を説明する発見であり、生物学的な意義が大きいだけでなく、技術的な応用可能性も秘めています。
研究チームによれば、今回得られた制御戦略はビーズ(身体)の数が増えても有効で、形が多少変化したり一部が壊れても機能し続けるという高い堅牢性を持つことが分かりました。
このような特性は、実際の微生物が環境の変化や損傷に適応しながら泳ぎ続けるメカニズムの解明にもつながるでしょう。
さらにこの成果は、人工的に作られる極小のロボット(ナノボット)への応用にも期待が寄せられています。
研究共著者のアンドレアス・ツェトル氏は「つまり、ごく簡単なプログラムで複雑な作業をこなす人工構造体を作り出すことも可能になるということです」と述べています。
例えば、応用例として次のようなナノボットが考えられるでしょう。
環境分野: 水中の油汚染を自律的に探知・除去するナノボット。
医療分野: 体内で標的部位まで自律移動し、薬剤を放出するナノボット。
今回解明された「分散型の単純ルールによる協調運動」という原理は、生物が持つ優れた適応能力の一端を示すものです。
脳がなくても各部分の協働によって高度な機能を発揮するというこの仕組みは、今後さらに多くの生命現象の理解につながる可能性があります。
また同時に、創薬や環境修復の現場で活躍する自律型マイクロロボット開発への道筋を示すものとして、大いに注目されるでしょう。
元論文
Neuroevolution of decentralized decision-making in N-bead swimmers leads to scalable and robust collective locomotion
https://doi.org/10.1038/s42005-025-02101-5
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部