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たとえば、好きな人に振られて物に八つ当たりしてしまった——そんな経験はないでしょうか。
実は、人が「キレやすい」かどうかにはある遺伝子が関係している可能性があります。
この遺伝子は「戦士の遺伝子」とも呼ばれ、持っている人は挑発されると攻撃的な行動が強まりやすいことが研究で示されています。
「戦士の遺伝子」の正体は、脳内で神経伝達物質を分解する酵素MAOAを作るMAOA遺伝子です。
人によってこの酵素をたくさん作る型とあまり作らない型があり、後者(MAOA-L)では酵素が不足するため神経伝達物質が処理しきれず、興奮が鎮まりにくい状態になると考えられています。
最近の研究で、より一般的な低活性型(MAOA-L)の変異も人の怒りっぽさに影響しうることが分かってきました。
ある実験で、被験者が自分のお金を奪った相手に罰を与えられる場面を設定しました。
その結果、大半を奪われる強い挑発ではMAOA-L保持者のほうが激しく報復しましたが、わずかな挑発では遺伝子による差が見られませんでした。
つまり、この遺伝子の影響は普段は控えめでも、理不尽な目に遭うと怒りの導火線に火がつきやすいということです。
しかし、MAOA-Lを持つ人が常に怒りっぽいとは限りません。
むしろ最近の研究では、彼らは人一倍傷つきやすく、侮辱や拒絶といった心の痛みに過敏に反応してしまうことが示唆されています。
実際、社会的に仲間外れにされた場面で、痛みに関わる脳の部位が通常より強く反応することも確認されています。
つまり、傷つきやすいからこそ怒りやすい可能性があるのです。
このMAOA-L型自体は決して珍しいものではありません。
欧米では約3人に1人がこの変異を持つと報告されており、ごくありふれた体質なのです。
ただし、この遺伝子があるからといって誰もが乱暴になるわけではありません。
その影響が現れるかどうかは環境や状況次第です。
幼少期に虐待を受けたグループではMAOA-L保持者が将来暴力に走る割合が際立って高かった一方、虐待なく育った場合はたとえこの遺伝子を持っていても反社会的行動に出る人はほとんどいませんでした。
要するに、遺伝子は火薬のようなものですが、それに火をつけるかどうかは周囲の環境なのです。
「戦士の遺伝子」が怒りっぽい型である人が、さらにオキシトシン関連の遺伝子でストーカーを引き起こしやすい型を持っており、恵まれない環境で暴力を抑えることを学ばなかった場合……恋人から拒絶されたことで激昂し、過剰なつきまといや暴力が絡む重大な事件へ発展するというシナリオもあり得るでしょう。
ただストーカーによる重大な殺傷事件は、オキシトシンや戦士の遺伝子だけで全て解説できるわけではありません。
安らぎを与えるセロトニン系や興奮を起こすドーパミン系など人間の感情に作用する遺伝子は膨大な数に及ぶからです。
そのため「この遺伝子がある人はストーカーになりやすい」という傾向はあっても、「この遺伝子のせいでストーカーになった」と全ての責任を特定の遺伝子のせいにすることはできないのです。
では結局「ストーカー遺伝子」という言葉は意味があるのでしょうか?
本記事で見てきたように、人の偏執的な攻撃性や執着心を左右するのは単一の「ストーカー遺伝子」ではなく、複数の遺伝要因の絡み合いです。
例えばオキシトシン受容体遺伝子は人の信頼傾向や共感能力と関連しています。
MAOA遺伝子の変異は衝動的な攻撃性と結びつく可能性が指摘されています。
これらの事例は、“犯罪遺伝子”なるものの存在を直接示すというより、遺伝子変異が人の反社会的傾向を高めうることを示唆しています。
言い換えれば、遺伝の影響は白黒のスイッチではなく、グラデーションとして私たちの性質に現れるのです。
しかも、こうした遺伝素因は一部の人だけのものではありません。
実際、高い攻撃性に関わるMAOA遺伝子の低活性型は欧米系白人男性の約34%に見られるとの報告もあります。
またオキシトシン受容体遺伝子の低性能タイプ(AA型)は欧州系成人では12%となっています。
(※ちなみに日本人男性の場合、戦士の遺伝子とされるMAOA遺伝子の低活性型の保持率はなんと55~65%とされ、これは世界的にもかなり高い数値です。また日本人のオキシトシン受容体遺伝子の低性能タイプ(AA型)の割合も38〜44 %とかなり高くなっています。)
つまり「ストーカー気質」の種は特別な突然変異ではなく、私たち誰もの中に潜み得るのです。
遺伝要因の支配力を如実に示すのが、一卵性双生児の研究です。
遺伝情報が完全に同一の双子では、一方が凶悪な犯罪行動に及んだ場合、他方も同様の行動を取る確率が約50%(40〜55 %の範囲)に達します。
一方で、遺伝子の半分しか共通しない二卵性双生児では一致率は約20%に留まります。
さらに、人間の「共感力」ですら遺伝に左右されます。
ある分析によれば、他者の痛みに共感して感じる情動的共感性は約半分が遺伝要因で説明できるそうです。
生まれ持った設計図が、私たちの気質から行動まで大きく方向付けていることは否定できません。
しかし、たとえ“危険な”遺伝子を持っていても、人が必ず犯罪者になるわけではありません。
環境要因との相互作用も無視できません。
例えば、前出のMAOA変異でも、幼少期に虐待を受けた人のみ暴力的傾向が顕著に現れ、同じ変異を持っていても虐待を受けなければ問題行動は増えなかったという報告があります。
このように、遺伝子はあくまで“傾向を高める”要因であって決定因ではないのです。
したがって、遺伝子スクリーニングで将来の犯罪者候補を特定しようとする発想には危険が伴います。
ある遺伝型を持つ人を「将来の犯罪者」と烙印すれば、社会的な偏見を生みかねません。
それでもなお、最もゾッとする現実が残ります。
人間は自分の意思で行動を選んでいるつもりでも、その深層では遺伝子が静かに糸を引いているかもしれません。
「ストーカー遺伝子」は確かに存在するのかもしれません。
ただし、それは特殊なDNAではなく、誰もの中に内在する無数の資質の一部です。
自分の中にその暗い芽が潜んでいると想像するだけで、自身の内面が少し怖く感じるのではないでしょうか。
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部