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しかし一方で、傷口の治癒には多くのエネルギーや栄養が必要でもあります。
このエネルギーは、成長や繁殖、日々の活動などにも使われるため、「傷を治すか」「それ以外の目的に資源を使うか」というトレードオフ(両立できない選択)が生じます。
その結果、動物たちは環境に応じて“最適な治癒速度”を進化の中で選び取ってきたと考えられています。
これまでの研究では、人間の傷の治癒は他の哺乳類に比べて遅いとされてきましたが、まだ正確には明らかにされていません。
そこで研究チームはヒトを含む複数の哺乳類を対象に傷の治癒速度を比較し、その謎に迫りました。
研究チームはまず、ヒトの他に、チンパンジー、アヌビスヒヒ、サイクスモンキー、ベルベットモンキーなどの霊長類、それからラットとマウスのげっ歯類を含めた計7種を対象に、皮膚の傷がどれだけ早くふさがるかを詳細に計測しました。
非ヒト霊長類と齧歯類には人工的に標準化した小さな創傷を与え、治癒の進行を写真で定期的に記録しました。
一方で、ヒトとチンパンジーには倫理的配慮から自然発生した傷口だけを追跡し、治癒速度を測定しました。
その結果、非ヒト霊長類と齧歯類はおおむね1日あたり0.6mmの速度で傷がふさがっていくことがわかりました。
ところがこれに対し、ヒトの傷口では1日あたり0.25mmと、約3分の1のスピードでしか治癒が進まないことが明らかになったのです。
しかも、ヒトに近縁なチンパンジーでさえ他の霊長類と同等の速度で治っており、ヒトだけが例外的に遅いということが浮き彫りになりました。
これはヒトの治癒遅延が霊長類共通の特性ではなく、ヒト系統で進化的に獲得された“不利な進化”の一つである可能性を示唆します。
ではなぜヒトだけがそんな代償を背負うことになったのでしょうか?
研究チームはその要因として、次の3つの可能性を指摘します。
・ヒトは汗腺の発達(体温調節の進化)と引き換えに体毛が減少し、表皮が厚くなった
・そしてヒトの表皮は霊長類の3~4倍の厚さになり、傷口の修復に時間がかかるようになった
・一般的に傷口の修復は毛包幹細胞が担うが、ヒトは体毛が少ない=毛包も少ないため、 幹細胞数が減少し、傷の治癒に時間がかかるようになった
・ヒトは他の野生動物と違って、仲間と協力して生活する社会基盤が確立されており、誰かがケガをしたら、協力して介護したり、薬草を塗布したりできる
・またその間は食事の提供や身の安全も担保されるため、傷の治癒にじっくりと時間をかけられる
ただその分だけ、人体は他の何らかの機能にエネルギーや栄養を回すことができるようになったのかもしれません。
これらはまだ仮説の域を出ていませんが、説得力のあるものとして提示されています。
今回の研究は「なぜ人間は傷の治りが遅いのか?」という謎に新たな光を当てる一歩となりました。
それは私たちの身体が、見えないところで他の哺乳類とはまったく異なる進化の道を歩んできたことを物語っています。
皮膚の治りが遅い――そのことすら、ヒトという種のユニークさを物語る進化の証なのかもしれません。
参考文献
ヒトの皮膚は治癒が3倍遅い―ヒト系統で獲得された不利な特性であることを解明 ―
https://www.u-ryukyu.ac.jp/news/66536/
元論文
Inter-species differences in wound-healing rate: a comparative study involving primates and rodents
https://doi.org/10.1098/rspb.2025.0233
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部