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脳が経験を記憶に変える仕組みは、かつては「一緒に活動した回路どうしが結びつきを強める」という、非常にシンプルな学習ルールだけで説明できると信じられてきました。
イメージするなら、夜景の中で同時に光った街灯の間にだけ太い電線が敷設されるようなもので、わかりやすい一方で多様な学習現象をすべて説明するのは難しい面がありました。
実際、私たちの行動を見ても、同じ失敗を繰り返すこともあれば、一度でコツをつかむこともあり、学習の速度も質もさまざまです。
こうした柔軟性を一本の公式で説明するのは厳しいという意見が近年高まっていました。
そこで浮かび上がったのが「クレジット割り当て問題」です。
シナプスは現場作業員のように自分の足元しか把握できませんが、脳全体としてはそれらを多数決で統合し、「この動きは成功」「この音はまちがい」と判断しています。
この構造は、アリ一匹一匹に全体像は見えていなくても、結果的に巣が完成してしまう様子に似ているため、「シナプスはアリ、ニューロンはコロニー」という比喩が使われることもあります。
では、シナプス一つひとつの小さな決断がどうやって大きな学習へつながるのでしょうか。
そこで注目されたのが、ニューロンの枝ぶりです。
神経細胞は一本の幹から何本も伸びる樹状突起をもち、その先端には細やかなシナプスがびっしりと並んでいます。
とくに頂上近くの細い枝(アピカル樹状突起)と根元近くの太い枝(ベイサル樹状突起)は、受け取る信号の性質や電気的特性が異なり、まるで一つの会社の“営業部”と“経理部”のように分業していると考えられるのです。
もし本当に「ニューロンは部門制企業」で、それぞれの部署が独自の学習ルールブックを持っているなら、脳は必要に応じてルールを切り替え、素早く配線を調整できるかもしれません。
とはいえ、学習の最中に生きたシナプスを一本ずつ同時に観察するのは従来の顕微鏡ではほぼ不可能でした。
シナプスの「入力」とニューロンの「出力」をリアルタイムで見比べるという、まるでドローンでビル建設現場を俯瞰するような新しい視点が必要だったのです。
そこで今回研究者たちは、一本のニューロンを枝先から根元まで“生中継”し、本当に枝ごとに学習ルールが違うのかどうかを確かめることに挑みました。
実験は、マウスにとってはちょっとしたミニゴルフの練習のような課題から始まります。
研究者は動物に小さな球を転がして穴に入れる作業を毎日繰り返させ、ぎこちなかった前足の動きが二週間ほどで滑らかになっていく様子を観察しました。
その間、脳の配線がどう変化するかを“現場実況”するため、マウスの頭蓋骨に小さな窓を開けて二光子顕微鏡を取り付けたのです。
この顕微鏡では、一本のニューロンの枝先から根元まで、どのシナプスがいつ働き、細胞全体がいつ“イエス!”と反応したのかを観察できるようになっています。
すると驚くべきことに、頂上付近の細い枝では「近くにあるシナプス同士が一斉に活動すれば強化される」という、“ご近所同士の結束”がカギでした。
一方、根元近くの太い枝では「ニューロン全体が発火した瞬間に活動していたシナプスだけが強くなる」という、“成功シグナルとの一致”が決定打になります。
つまり、同じニューロンでも、枝の先と根元ではまるで別世界――協調重視型と自己評価重視型という二通りの学習ルールが棲み分けられていたのです。
私たちはこれまで一本のニューロンが従う学習ルールはシナプスを繋ぐか繋がないかといった1種類のものだと考えがちでした。
しかし新たな結果は、「1本の樹のように枝を伸ばした1個のニューロン」でさえ、場所によって学習ルールがまったく異なることを示していました。
この発見は世界で初めて、一本のニューロンが“営業部”と“経理部”さながらの役割分担をして、それぞれ独自のルールブックで学習している瞬間がリアルタイムでとらえられたというわけです。
今回の発見が示す最大のメッセージは、私たちが「脳は単純なルールだけで学ぶ」と思い込んでいたのが、必ずしも正しくなかったということです。
一本のニューロンの中でも、先端の“営業部”ではチームワーク重視、根元の“経理部”では発火タイミングを厳格に評価する――こうした部門制企業のような構造があり、それが脳の学習を支えているのではないかという新しい視点が生まれました。
さらに重要なのは、この仕組みが長年の謎だった「クレジット割り当て問題」を上手に処理している可能性がある点です。
上から指示や評価をしなくても、ニューロンが枝(部署)ごとにルールを切り替えることで、それぞれがうまく報酬を配分できるのかもしれません。
この考え方をAIに応用すると、ニューラルネットの1つのノードに複数の学習則を組み込むという斬新な設計が期待されます。
現在の人工知能は層ごとに共通ルールで学習を進めることが多いですが、脳のように“1つの細胞が複数のルールを同時運用”する形にすれば、より柔軟かつ安定した学習が可能になるかもしれません。
実際、研究者の間では「AI は 1 層 1 ルール、脳は 1 セル複数ルール」というフレーズがささやかれています。
医療面でも、PTSD やアルツハイマー病、あるいは自閉スペクトラム症のように「学習・記憶の障害」がみられる疾患に対し、どの樹状区画のルールがうまく機能していないのかを狙い撃ちする新たな治療法が考えられるかもしれません。
協調型が過剰に働けば余計な連想が広がり、自己評価型が弱まれば行動の定着が難しくなる――そんな仮説を具体的に検証できる日が来そうです。
もちろん、今回調べられたのはマウスの運動皮質だけであり、感情を司る前頭前皮質や記憶の要である海馬でも同様の複数ルールが働くのかは未検証です。
また、ヒトの樹状突起はマウスよりさらに複雑な可能性が高く、複数ルールの数や組み合わせも増えるかもしれません。
それでも、ニューロンの中に複数の学習エンジンが並列で動いているという新しい地図は、神経科学・医学・AI 研究それぞれに次の目的地を示してくれました。
私たちが作る人工システムや治療法も、単一の決まり文句に頼らず、多言語的・多ルール的な設計へ進化していく時期が来ているのかもしれません。
元論文
Distinct synaptic plasticity rules operate across dendritic compartments in vivo during learning
https://doi.org/10.1126/science.ads4706
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部