「あっ、熱い!」 ──私たちは、熱いフライパンに手を触れた瞬間、すぐさま痛みを感じ、思わず手を引っ込めます。

この“痛みを検知して脳が反応する”現象は日常的なものですが、いったいどのような仕組みで生じているのでしょうか。

アメリカのスタンフォード大学(SU)でお行われた研究によって、ヒトの脳を模した“オルガノイド”を培養することで、まるで試験管の中に痛みの伝達回路を再現できるようになったと報告されました。

従来、痛みの研究は多くを動物実験に頼ってきましたが、人間の痛みをそっくり試験管内で再現できれば、新薬開発や慢性痛の治療に大きな変化をもたらすかもしれません。

「痛みを処理できる脳オルガノイド」はいったいどのように誕生したのでしょうか?

研究内容の詳細は『Nature』に掲載されました。

目次

  • 複雑すぎる痛覚回路を丸ごと再現したい理由
  • 四つのオルガノイドを“直列接続”──試験管で痛みの伝播を可視化
  • 脳オルガノイドがもたらす痛み研究の未来

複雑すぎる痛覚回路を丸ごと再現したい理由

脳オルガノイドを「直列接続」 して痛覚を可視化することに成功 / 痛みを正しく理解するには末梢や脳だけでは足りず全体像が必要です/Credit:Ji-il Kim et al . Nature (2025)

痛みは、言わば私たちの「警報装置」です。

指先にトゲが刺さったり、熱いフライパンに触れたりした瞬間、ビリッとした感覚が体を走って「危険だ!」と知らせてくれます。

これは外界や体内の異常を検知し、脳に伝えることで回避行動をうながす大切な仕組みです。

しかし、この痛みの“正体”をひとつの実験系で丸ごと再現するのは、実はとても難しいことでした。

なぜなら、痛みは単純な“一直線”の情報伝達ではなく、末梢の感覚受容器で発生した信号が脊髄を通り、さらに脳深部の視床へ渡され、最終的には大脳皮質にまで届く、複雑な階層構造になっているからです。

複数のステーションを経由していくうちに、痛みの強さや種類などが次々と処理され、必要に応じて「これはただの刺激か、それとも危険信号か?」と判断されていきます。

こうした多層的な仕組みをまるごと試験管内にまとめようとしても、今までは技術的な制約が大きく、思うようにはいきませんでした。

さらに、動物を使った実験では「動物モデルでは痛みを訴えられない」「ヒトとは遺伝子も感覚の閾値も異なる」といった理由から、人間の痛みと必ずしも一致しない部分がありました。

このギャップは新薬の開発などにも大きく影響し、“動物実験では効いた薬がヒトでは効かない”といった問題が繰り返し起きていたのです。

そこで注目されてきたのが、ヒトiPS細胞から作られる人工培養脳──通称「脳オルガノイド」です。

近年、脳オルガノイドを使ってミニチュアの脳組織を作り出し、アルツハイマー病や精神疾患のメカニズムを調べる研究が活発になりました。

しかし、既存の脳オルガノイドの多くは、脳の一部だけを再現したり、限られた機能だけを観察したりするものが中心でした。

痛みのように末梢と中枢をつなぐ複雑な回路を“まとめて”再現するのは至難の業だったのです。

とはいえ、痛覚の本質を理解するうえでは、「末梢から脳までの情報伝達をそっくりそのまま再現する」ことが理想的です。

脳オルガノイドと呼べるのは視床、大脳の2つで末梢と脊髄は神経オルガノイドに近いものとなっています。そのため厳密には直列接続されている脳オルガノイドは3つで残りの1つは末梢神経と言えます/Credit:Ji-il Kim et al . Nature (2025)

もし研究室の中で人間の痛み回路を再構築できるなら、末梢から脳までの信号がどう変化し、どの部分で痛みが強化され、あるいは抑えられているのかを直接観察できるようになります。

これは慢性痛や先天性無痛症などの原因解明や新薬開発にも大きく役立つ可能性を秘めています。

そこで今回研究者たちは、「末梢神経→脊髄→視床→大脳皮質」という階層をそっくり再現するため、四種類のオルガノイドを組み合わせる手法を考案しました。

こうして作り上げられた“ミニチュア痛み回路”を試験管内で直接観察し、痛みがどのように受容・伝達・処理されるのかを探ろうとしたのです。

四つのオルガノイドを“直列接続”──試験管で痛みの伝播を可視化

四つのオルガノイドを“直列接続”──試験管で痛みの伝播を可視化 / Credit:By re-creating neural pathway in dish, Stanford Medicine research may speed pain treatment

今回の研究チームは、まずヒトiPS細胞を使って“四種類”のミニチュア組織を作り上げました。

感覚情報を受け取る部分(一次感覚ニューロンに対応)から、脊髄の背側(痛みや触覚を受け取る脊髄後角)、視床(感覚情報のリレーセンター)、そして大脳皮質(最終的に情報を統合する領域)という各ステーションをそれぞれオルガノイド化し、ひとつずつ別々に培養します。

痛みを伝える経路を“分割”してパーツとして準備したわけです。

次に行ったのは、これら四種類のオルガノイドを直列に“つなげる”ことでした。

まるで電気回路を自作するように、末梢から中枢までの順番でスライド状に並べ、物理的に融合させたのです。

末梢神経→脊髄→視床→大脳皮質という情報伝達の経路と同じ順番で配置することで、実際の人間の体とできるだけ近い構造を再現したわけです。

ただこの段階ではまだ、本当に痛みの信号が末梢から順繰りに伝わるかは不明でした。

そこで実験では、末梢側のオルガノイド(感覚神経に対応する部分)を、痛み受容を引き起こす薬剤──たとえば粘膜などに触れると痛みになるカプサイシンや、痛みにかかわる神経受容体を選択的に活性化するαβ-メチルATPなど──で刺激しました。

その時の電気活動を特殊な“カルシウムイメージング”によって可視化し、信号が脊髄→視床→大脳皮質の順に伝わるかどうかを確かめたのです。

結果は驚くべきもので、刺激を受け取った感覚オルガノイドだけでなく、その先にある脊髄様オルガノイド、さらに視床や大脳皮質オルガノイドも“波及するように”同期して活性化しました。

つまり、末端で感知した痛み信号が、試験管内の“ミニチュア回路”を通じて脳まで届くことが実証された形になります。

さらに研究者たちは、ヒトの痛覚異常に関わる代表的な遺伝子「SCN9A」の変異も試してみました。

SCN9Aは末梢の感覚ニューロンで痛みを感じるうえで極めて重要なナトリウムチャネルをコードしており、先天性無痛症や極端な痛覚過敏に関与することが知られています。

たとえば、2006年に発表された家族例では、変異を持つ子どもたちが熱いものに触れてもまったく痛みを訴えず、気づかぬうちに火傷や骨折をしていたといった報告があります。

今回の実験で研究者たちは、このSCN9A変異を末梢感覚系オルガノイドに導入してみたところ、痛み刺激に対する応答や回路全体の同期が著しく変化するのを確認しました。

(※変異が欠損型の場合は、回路全体の同期活動が明らかに低下し、逆に痛みを増幅するタイプの変異ではネットワークが過剰に活性化しました。)

これは、ひとつの遺伝子変化が感覚ニューロンだけでなく脊髄や視床、大脳皮質にも連鎖的な影響を及ぼし、痛み回路のバランスを大きく崩すことを示しています。

このように、四つのパーツを組み合わせるという斬新な発想と、実時間で信号のやり取りをのぞき見る高度なイメージング技術が組み合わさり、“試験管の中で痛みが伝わる瞬間”を可視化できるようになりました。

本来なら生体内を観察しなければわからないような、痛みの伝達プロセスや遺伝子変異の影響を、そのまま試験管内で確かめられる──この点こそが、研究のいちばん刺激的な成果だと言えるでしょう。

脳オルガノイドがもたらす痛み研究の未来

脳オルガノイドを「直列接続」 して痛覚を可視化することに成功 / dパネルは、hASA(ヒト上行性感覚アッセンブロイド)全体の中で、αβ-メチルATPを刺激として与えた直後に、神経細胞内にカルシウムが流入して発生する蛍光シグナルを捉えた画像です。 この画像では、オルガノイドが組み合わさった全体の配置が見え、各部位が痛み刺激に対して明るく光っている様子から、神経回路全体が一斉に反応していることが直感的にわかります。 一方、FIG4のeパネルは、その反応を時間軸に沿ってグラフ化したもので、各オルガノイド領域でのカルシウムシグナルの上昇やピークを示しています。 ここでは、刺激が与えられた瞬間から各領域で信号が増加し、そしてその後の変化が連続して記録されているため、痛みの信号が末端から中枢に至るまで伝播している様子が示されています/Credit:Ji-il Kim et al . Nature (2025)

今回の成果が示す大きな意義は、試験管内でありながらヒトの痛覚回路を“ほぼ本物と同じ順序”で再現し、遺伝子変異や薬剤の影響をダイレクトに検証できるという点です。

これまで痛みの研究では、動物実験で得られた知見が人間の症状や反応とは異なる場合が少なくありませんでした。

ヒト由来の細胞で作られたオルガノイドを使えば、そうした種差の問題を大きく減らせるうえ、動物実験では扱いづらい先天性の痛覚異常や過敏症なども、比較的容易にモデル化できる可能性が広がります。

また、今回のモデルを用いることで、どの段階で痛みが“強化”あるいは“抑制”されるのか、どんな遺伝子異常が回路全体の働きを崩すのかを、リアルタイムで観察できるようになりました。

実際、SCN9Aの欠損が回路全体の同期活動を弱めることが判明したのは大きな発見であり、痛覚の治療標的を再考するヒントにもなりそうです。

逆に、痛みを過剰に増幅する変異型では、末端からのシグナルが過度に強まって脊髄や視床、大脳皮質まで連鎖的に“暴走”する様子が観察されました。

こうしたエビデンスは、慢性痛や難治性疼痛などの仕組み解明にも役立つかもしれません。

ただし、血管系や免疫細胞がほとんど含まれないオルガノイドであるがゆえに、まだ本物の体内環境とまったく同じとは言えません。

将来的には、栄養供給や炎症反応の研究もできるように改良が進む見込みです。 さらに成熟度を高めることで、より長期的な発達過程の再現や、末端の感覚受容器そのものを含む複合モデルなども期待されます。

もし皮膚オルガノイドや血管網と組み合わせることができれば、痛み刺激の発生から脳への伝達までを、より正確にトレースするシステムへと進化するかもしれません。

とはいえ、人間の痛覚を“ミニチュア回路”として観察できるようになったのは画期的です。

これは単なる基礎研究にとどまらず、慢性痛や先天性無痛症の治療薬開発の加速や、オーダーメイド医療の一助となることが期待されます。

今後、この技術がさらに発展し、オルガノイドを使って他の感覚(たとえば温度や触覚だけでなく視覚など)も含めた総合的な脳機能の解明が進めば、脳科学と医療の境界をまたいだ新しい扉が開かれるかもしれません。

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元論文

Human assembloid model of the ascending neural sensory pathway
https://doi.org/10.1038/s41586-025-08808-3

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 脳オルガノイドを「直列接続」 して痛覚を可視化することに成功