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脳のオルガノイド研究は、2013年頃から急速に注目を集めてきました。
これは、ヒトの幹細胞(ES細胞やiPS細胞など)を培養することで、試験管の中に立体的な脳組織の“ミニチュア版”を再現する技術です。
最初は大脳皮質だけ、小脳だけ、といったふうに特定の領域を限って作られたケースが多かったのですが、ヒトの脳疾患は往々にして複数の領域や細胞タイプの異常が絡み合うため、より包括的な“丸ごとの脳”に近づけたいという研究ニーズがありました。
さらに重要なのが、脳を支える血管の存在です。
血管は酸素や栄養を運ぶだけでなく、脳の発生や機能に関するシグナル(合図)を出すなど、ただの“管”以上の役割を果たしています。
しかし、これまでのオルガノイド研究では十分に血管の構造や機能を再現するのが難しく、オルガノイドを大きく育てると中心部分が死んでしまうなどの問題がありました。
こうした背景から、複数の脳領域をまとめて再現し、しかも血管に近い細胞が加わったモデルをつくろうとする取り組みが近年活発化しています。
なかでも、大脳だけでなく後脳や中脳、そして血管のもととなる上皮細胞などをひとつに融合するアプローチは、いっそうヒト胎児脳に近い“ミニ脳”を育てるカギと期待されています。
これが今回の研究で紹介された“多領域脳オルガノイド”という新しいモデルです。
こうしたよりリアルなオルガノイドが実現すれば、脳科学の謎に迫るだけでなく、自閉症や統合失調症といった複雑な神経発達障害の仕組み解明にも大きく貢献できると期待されています。
今回の研究チームは、まずそれぞれ別々に作られた「大脳オルガノイド」「後脳オルガノイド(小脳や脳幹の領域を含む)」「血管になる細胞を含む血管内皮オルガノイド」という三種類の“ミニ脳”を用意しました。
これらは、ヒトの幹細胞から育てられたものですが、ふつうは単独で培養しているため、お互いの細胞が交流する機会はありません。
そこで研究者たちは、三種類のオルガノイドを培養の途中で物理的に接触させ、ひとつの立体構造へとゆっくり“融合”させるという新しい手法を使いました。
大まかにいうと、20日ほどかけて接触部分がくっつき、一部の細胞が境界を越えて動いていき、結果的に境目が曖昧になるほど自然に混ざり合ったのです。
この融合オルガノイドを分析すると、受精後約40日目の胎児脳に見られる細胞タイプのおよそ80%が含まれていることがわかりました。
つまり、大脳だけではなく後脳や血管由来の細胞まで入り混じっており、これまでの単一オルガノイドよりはるかに多彩な細胞構成を持っているのです。
さらに、研究チームは異なる3人由来の幹細胞を使って同じプロセスを繰り返してみましたが、いずれも似たような融合オルガノイドが得られました。
これは、技術としての再現性が高いことを示しています。
また、一部では血管になる前段階の細胞が確認され、実際に培養液を流すなど血管が発達しやすい条件を整えれば、もっと本格的な血管網の構築につながる可能性が見えてきました。
一方、オルガノイド内部で神経細胞が電気的な活動を示すかを調べると、単一のオルガノイドではあまり見られなかった複数領域間の“やり取り”らしきパターンも検出されました。
これは、それぞれ違う機能を持つ脳の領域が合わさることで、より複雑なネットワークを形成しつつあることをうかがわせます。
こうして、新たに作られた融合オルガノイドは、従来のミニ脳よりも一歩進んだ“胎児脳モデル”と言えそうだと、研究者たちは結論づけています。
今回作成された融合オルガノイドは、ヒト胎児脳をより忠実に再現するための大きな一歩と言えそうです。
大脳だけでなく後脳や血管構造の要素まで含んだことで、実際の脳発生に近い多様な細胞同士の相互作用を観察できるようになりました。
ここから期待されるのは、神経発達障害や精神疾患といった、これまで動物モデルだけでは理解が難しかった領域での研究の進展です。
たとえば自閉症や統合失調症では、複数の脳領域がどのように連携できていないのかを探るには、まさにこうした“複数領域が統合されたヒト脳モデル”が効果的でしょう。
また、創薬や毒性評価への応用も見逃せません。
脳疾患の治療薬の多くは、まずマウスなどの動物実験で試されるものの、人間とは脳の構造がかなり異なるため、薬の効果や副作用が予想と違う結果になることがよくあります。
融合オルガノイドなら、よりヒトに近い仕組みを試験管内で簡易的に再現できるため、将来的には新薬開発のスピードアップや安全性の向上にも寄与するかもしれません。
今回の融合オルガノイドは、胎児の脳にかなり近づいたとはいえ、まだ「意識が生まれる」レベルには達していません。
実際には、数ミリメートルほどの大きさしかなく、酸素や栄養を運ぶ本格的な血管網も十分に機能していないため、本物の脳のように高度な活動をするのは現段階では考えにくいのです。
ただし、脳がより精巧に作られていく将来を見据えると、「どこまで人工的にヒト脳に近づけてよいのか」「どのタイミングから意識や痛覚といった倫理的にデリケートな問題が生じるのか」という新たな懸念も浮上します。
研究チームは「10年先には、さらに高度なオルガノイドが誕生するかもしれない」と言及し、そのときには国際的なガイドラインの整備や社会的な議論が必要になるとの見方を示しています。
今後は、どこまで“ヒト脳”を再現するのが望ましいのか、あるいは必要なのか――そうした問題提起が世界中でますます重要になっていきそうです。
元論文
Multi-Region Brain Organoid –Fusion Organoid with Cerebral, Endothelial and Mid-Hindbrain Components
https://doi.org/10.1101/2025.01.20.633788
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部