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クロノスタシスの代表例として有名なのが、「秒針を見た瞬間に時計が止まったように見える」という現象です。
Kielan Yarrowらは、被験者が視線を別の場所へ移すサッカードと呼ばれる急速な眼球運動と、時間の知覚がどう結びついているのかを調べました。
その結果、サッカードの距離(角度)が大きいほど、「秒針が止まっている」と感じられる時間も長くなる傾向が示されたのです。
なぜ、このような時間の伸びが生じるのでしょうか。
大きな要因として、サッカード中の視覚情報の空白を脳が巧みに補完していることが挙げられます。
人間の視線は高速移動中、外界の映像を鮮明には捉えていません。
もし脳がこのブレた映像をそのまま私たちに届けてしまうと、世界は常に揺れ動いて見えるはずです。
しかし、私たちは日常でそんな感覚をほとんど持ちません。
これは脳が、サッカード前後の映像をつなぎ合わせて、連続したひとつの視界としてまとめ上げているからだと考えられています。
視線をずらした瞬間に見ている対象が実際には動いていないのに、脳は「同じ場所にある同じものを見続けていた」と判断し、その状態をあたかもサッカード前から継続していたかのように処理してしまいます。
これによって生まれるのが、一瞬だけ時間が引き延ばされたかのような錯覚です。
また、この効果は「対象が安定している」と感じられる場合に顕著に表れます。
サッカードの最中に対象が移動してしまうと、連続性が保てずクロノスタシスが起こりにくくなることも報告されています。
実際にどれほど時間が歪んでいるのでしょうか。
視線を22度急速に動かしたとき、被験者は秒針が止まっていたと感じる時間はおよそ数十ミリ秒単位でした。
角度が大きい55度になると、その錯覚がさらに大きくなり、約70ミリ秒前後もの余分な時間を知覚していた可能性が示唆されています。
もちろん個人差はあるものの、こうしたわずかなズレが主観的には「秒針が止まった」というはっきりした印象を与えるには十分なのです。
クロノスタシスは決して珍しい特殊な現象ではなく、むしろ脳が普段から行っている情報の補正が、一瞬だけ垣間見える現象だといえるでしょう。
私たちが当たり前に感じている連続的な視界は、実際には脳の微妙な再構築作業によって成立しており、その副作用として時計の秒針が止まっているように感じられるわけです。
さらに、クロノスタシスは聴覚でも同様の時間延長が起こりうることが示唆されています。
「電話の呼び出し音を待つとき、次の音がなかなか鳴らないように感じる」という体験を実験で再現し、その錯覚を聴覚クロノスタシスと呼びました。
研究では、被験者にヘッドフォンを装着させ、まず片耳からの音の高さ(ピッチ)を判別する課題に集中させます。
そして課題終了後にもう片耳へ注意を移し、無音区間の長さを評価してもらいました。
すると、注意を移した直後に聞こえる最初の無音区間が、客観的な長さよりも長く感じられる傾向が明らかになったのです。
これは、視覚クロノスタシスと同様に「脳が新たな入力チャンネルに注意を向ける瞬間に時間が引き延ばされる」というメカニズムを示唆するものです。
視覚的なクロノスタシスでは、視線を急速に動かすサッカードが時間知覚を歪ませる要因とされています。
しかし聴覚の場合は、必ずしも耳や頭を動かさなくても、「どの方向から来る音に注意を向けるか」を切り替えるだけで、時間の錯覚が起こりうる点が特徴的です。
つまり、クロノスタシスの本質は単なる「身体の移動」ではなく、「脳が新しい情報源に対応しようとする際に生じる認知的な切り替え」にあるのかもしれません。
視覚だけではなく、聴覚でも同様のメカニズムが働くという点は、脳の情報処理が連続性や安定性を優先していることを示していると言えるでしょう。
視覚的、聴覚的な錯覚として注目されているクロノスタシス。
その背後にあるのは、視線移動や注意の切り替え時に脳が行う情報の補完・再構築過程で、一部の知覚を本来の時系列以上に延ばして認識してしまうという仕組みです。
私たちが何気なく体験している流れる時間は、実は脳の高度な編集作業によって生み出されている側面を持っています。
クロノスタシスは、その編集の瞬間を体感できる一例にすぎません。
こうした錯覚を知ることで、私たちの当たり前の時間知覚がいかに柔軟なものであり、どれほど主観的であるのかを改めて考えるきっかけとなるのではないでしょうか。
元論文
Illusory perceptions of space and time preserve cross-saccadic perceptual continuity
https://doi.org/10.1038/35104551
Auditory chronostasis: hanging on the telephone
https://doi.org/10.1016/s0960-9822(02)01219-8
ライター
岩崎 浩輝: 大学院では生命科学を専攻。製薬業界で働いていました。 好きなジャンルはライフサイエンス系です。特に、再生医療は夢がありますよね。 趣味は愛犬のトリックのしつけと散歩です。
編集者
ナゾロジー 編集部