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調査の結果、子どもたちの計算能力は学習環境に大きく依存していることが判明しました。
市場で働く子どもたちは、実際の市場取引を模したシナリオにおいて90%以上の正答率を示し、実生活で求められる複数の計算操作を迅速かつ正確にこなしていることが確認されました。
彼らはペンや紙に頼らず、頭の中で複雑な掛け算や割り算を分解し、丸め計算といった直感的な戦略を駆使して問題に対処しており、その柔軟性と効率性が際立っています。
しかし、同じ子どもたちが学校で出題される抽象的な数学問題に挑戦すると、正答率は大幅に低下し、例えば3桁の数を1桁で割る問題では正答率が32%程度に留まる結果となりました。
これまでの研究では、市場で働く子どもたちの算数能力が学校で学ぶ子どもたちより優れているとする報告もありましたが、本研究では働く子どもたちは学校形式の問題がかなり苦手であることが明らかになりました。
一方、学校に通う子どもたちは、教科書に基づいた抽象的な問題では筆記具を用いながら丁寧に計算し高い正確性を発揮するものの、実際の市場取引のように複数の商品や異なる単位、価格が絡む具体的なシナリオでは、その柔軟な応用力を欠き、正答率がわずか1%程度にまで落ち込むことが確認されました。
このように、両グループはそれぞれ慣れ親しんだ環境では優れた計算能力を発揮するものの、学習コンテキストが異なる場面ではそのスキルがうまく転用されず、市場で働く子どもたちは実生活に特化した直感的な戦略を持つ一方、学校で鍛えられた子どもたちは柔軟な解法に欠けるという明確な能力の二極化が浮き彫りになりました。
そうなると気になるのが理由です。
なぜ市場の経験は学校の問題を解くのに役立たず、学校の勉強は市場での実践に役立たないのでしょうか?
この事実を放置し続けることは、学校教育の危機につながりかねません。
なぜ実践と勉強の間でスキルが移行しないのか?
謎を解明するため研究者たちはデータの分析を行いました。
その結果、市場で働く子どもたちは、まるで経験豊富な職人のように、現場で必要な直感的かつ柔軟な計算技を自ら見つけ出し、磨いていることが分かりました。
例えば、複雑な掛け算や割り算を、大きなパズルを小さなピースに分けるかのようにシンプルなステップに分解し、数字を適度に丸めることで計算の負担を軽減するなど、効率の良い方法を自然と使いこなしています。
しかし、これらの戦略は「生きた現場」での経験に根ざしているため、教室で提示される数字だけの抽象的な問題では、その意味が文脈から切り離され、まるで魔法の杖が使えなくなったかのように役に立たないのです。
一方、学校で学ぶ子どもたちは、決められた教科書のレシピに沿って、固定的なアルゴリズムや手順に従う訓練を重ねています。
そのため、記号や数式が並んだ問題に対しては、まるで精密機械のように正確な答えを導き出すことができます。
しかし、実生活のように複数の変数や不規則な条件が絡む場面では、その硬直した方法は、まるで鎖に縛られているかのように動かず、柔軟な対応が求められる状況には全く力を発揮できないのです。
今回の研究結果は、従来の数学教育が抱える根本的な課題を浮き彫りにしています。
市場で働く子どもたちと学校に通う子どもたちの間で見られる大きなギャップは、単に「計算ができる・できない」という問題ではなく、どのような環境でどんな計算方法が身につくかに起因しているのです。
そこで今回の研究では、学校教育を「実践で使える」ものにするための貴重な提言が行われました。
第一に、現実に即した文脈での数学教育の重要性が挙げられます。
学校で教えられる抽象的な記号やアルゴリズムは、実生活での直感的な計算戦略とは大きく異なります。
実際の取引や日常の数値問題に即した具体的なシナリオを取り入れることで、生徒は学んだ知識をより柔軟に応用できるようになるでしょう。
たとえば、学校内で市場シミュレーションや金融リテラシーを取り入れた実践型授業を導入することが考えられます。
第二に、教科書に書かれた方法にとらわれない、多様な計算戦略の提示と実践の機会が必要です。
市場で働く子どもたちが自ら発見した「分解」や「丸め」といった効率的な計算方法は、学校での固定的なアルゴリズムとは一線を画しています。
教育現場では、従来の一辺倒な計算方法だけでなく、直感的な解法や多様なアプローチを紹介し、生徒に実践させる機会を増やすべきです。
これにより、生徒たちは自分に合った方法を選び、柔軟に問題に対応できるようになるでしょう。
第三に、既存の教科書の型を破る早期の教育介入が重要です。
研究では、一度形成された思考の枠組みは後から変えにくいことが示唆されています。
したがって、幼少期や初等教育段階から、具体的な事例と抽象的なアプローチの両方を統合した指導を行うことが、将来の柔軟な数学的思考力の育成に不可欠です。
現在の日本では、教科書に縛られた教育が主流であり、教科書にない方法で問題を解くと周囲から「奇異」の目で見られることもあります。
(※実際、昭和時代に小学校に通っていた筆者は、教科書にない方法で問題を解いたために教師の逆鱗に触れ、教室の外に出される経験をしたことがあります。)
そのような風土を改善することは、日本の子供たちの計算能力を改善するのに役立つでしょう。
ノーベル経済学賞を受賞したエスター・デュフロ氏は、本研究について「学校で習う抽象的な数学と、現実の市場で実践される直感的な計算力は、実は全く異なるスキルセットです。
教室で鍛えられたアルゴリズムが、日常の複雑な取引にそのまま活かされるとは限りません」とコメントしています。
氏は、教育現場での指導方法において実生活との結びつきを強化する必要性を強調し、子どもたちが早期から具体的な事例に触れる機会を増やすことが、将来の柔軟な数学的思考の育成につながると述べています。
もし日本においてもこのような改革が進めば、今後の世代は教室で学ぶ理論的な知識と、実生活で求められる実践的な能力の両方をバランスよく身につけることができるでしょう。
元論文
Children’s arithmetic skills do not transfer between applied and academic mathematics
https://doi.org/10.1038/s41586-024-08502-w
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部