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そんな彼は1695年8月27日、19歳のときに、教会で無作法な態度を取ったかどで長老会議に呼ばれますが、そこには出頭せず、海に逃亡して船乗りとなりました。
セルカークが参加したのは南洋への海賊遠征であり、1703年にはイングランドの著名な海賊であるウィリアム・ダンピア(1651〜1715)の一味に加わっています。
ダンピアは世界周航を3回成し遂げた最初の人物として有名です。
ただセルカークはダンピアが船長をしていたセント・ジョージ号には乗り合わせず、その仲間であるシンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングのもとで航海長となりました。
ところが翌年の10月、ダンピアとストラドリングのいさかいが原因で、シンク・ポーツ号はセント・ジョージ号と袂を分かち、食料と水を補給するため、南米チリ沖に浮かぶ「ファン・フェルナンデス諸島」に停泊します。
ファン・フェルナンデス諸島は3つの無人島からなり、彼らが泊まったのはそのうちの一つでした。
この島は旧名を「マサティエラ島」といいましたが、チリ政府が観光客を呼び込むため、1996年に「ロビンソン・クルーソー島」と改名しています。
そしてセルカークの無人島生活をしたのが、このロビンソン・クルーソー島だったのです。
しかし、なぜセルカークはたった一人で無人島に取り残されることになったのでしょうか?
無人島での休息を済ませた後、船長のストラドリングは再び海に出ようとしました。
しかしセルカークは「シンク・ポーツ号はもはや航海に耐えられない」と船の耐久性に強い疑念を抱いていたのです。
そこでストラドリングを含め、仲間たちに「島に残って、別の船が通るのを待とう」と提案しました。
ところがセルカークの言い分は一笑に付され、誰一人として彼に賛同する者はいませんでした。
それだけでなく、日頃からセルカークの起こす揉め事に嫌気がさしていたストラドリングは「では、お前だけ島に残るがいい」と彼を置き去りにしたのです。
セルカークはすぐに後悔して、海に出たシンク・ポーツ号を追いかけましたが、無駄でした。
船の影はどんどん小さくなっていき、水平線の向こうに消えていったのです。
ただセルカークの後悔に反し、彼の読みは当たっていました。
シンク・ポーツ号はその後、多くの乗組員とともに海に沈んでしまったのです。
ストラドリングと他の7名の乗組員だけが生き残りましたが、スペイン人に捕まり、結局はペルーのリマに投獄されています。
そんなことはつゆ知らず、セルカークの無人島生活が始まりました。
彼が所持していたのはマスケット銃に火薬、ナイフと大工道具がいくつか、それに身につけている衣服と一冊の聖書だけでした。
彼は島の内陸部に住む野生の獣を恐れて、海岸付近で生活を始めています。
小さな洞窟に棲みつき、貝殻なんかを食べながら、救助の船が通りかからないかと毎日毎日海を眺めていました。
その後、交尾期に入ったアシカの群れが海岸に押し寄せてきたため、セルカークは仕方なく島の内陸部へと移動します。
しかし彼の心配に反し、内陸部に危険な獣はおらず、むしろ生活はずっと快適になりました。
内陸には多種多様な食糧が豊富にあったからです。
幸運だったのは、セルカーク以前に島を訪れていた水夫たちが持ち込んだヤギが野生化し、繁殖していたことでした。
これらは食肉やヤギ乳としてセルカークの主食となります。
他にも野生のカブやキャベツ、胡椒の実など、食べる物はかなり充実していました。
少々厄介だったのは島のネズミたちが夜な夜なやって来て、セルカークをかじったことでしたが、これまた幸いなことに、ヤギと同じく野生化したネコを飼い慣らすことで、ネズミは一切寄り付かなくなったのです。
さらにセルカークは島の木材を切り出して、居住用の小屋も建てています。
このように彼の無人島生活は思いのほか快適に進んでいたようですが、一度だけ三途の川を渡りかけた出来事がありました。
それは銃の火薬が切れたため、自らの足で走って獲物を追いかけていたところ、崖から転落して意識不明の重体に陥ったのです。
丸一日は寝たきりになっていましたが、偶然にも獲物が下敷きになってくれたおかげで九死に一生を得ています。
こうして彼の無人島生活は一日一日と過ぎていき、気づけば4年と4カ月の月日が経とうとしていました。
孤独や不安に苛まれていたセルカークは、聖書を読んで自らの気持ちを慰めていたといいます。
そんなある日、セルカークの祈りが通じたのか、ついに助けの船が現れるのです。
1709年2月2日、セルカークのいた無人島に一隻の船が姿を現します。
それはウッズ・ロジャーズ(1679〜1732)という人物が船長を務める海賊船デューク号でした。
また偶然にもデューク号は、あのダンピアが率いる海賊一味の仲間だったのです。
ロジャーズの後日談によると、その前日、食糧調達のために島に近づいた折、岸辺に焚き火が燃えているのを発見し、「スペイン船が滞在しているのではないか」と懸念したといいます。
しかし乗組員を上陸させ確認させてみたところ、焚き火の主は4年前に島に取り残されたセルカークだったのです。
ロジャーズの日記には、発見時のセルカークの様子について「野性的な顔立ちで、ヤギの皮を着ていた」と記されています。
ついにセルカークは救助され、4年4カ月におよぶ無人島生活が幕を閉じました。
彼はしばらくの間、ロジャーズの部下として船で働いた後、1717年に故郷のロウアー・ラルゴ村に帰っています。
しかし海が恋しくなったのか、村には数カ月ほどしか滞在せず、再び船乗りとなって、イングランドの港湾都市プリマスでの逗留中に、夫を亡くした宿屋の女主人と結婚しています。
その後、セルカークは王室船ウェイマス号に艦長補佐として乗船していましたが、1721年12月13日午後8時に亡くなりました。
死因は船上で蔓延していた黄熱病でした。
彼の亡骸はアフリカ西海岸の沖合で水葬に付されています。
こうしてセルカークの数奇な人生は終わりましたが、イギリスの小説家ダニエル・デフォーが彼をモデルにし、『ロビンソン・クルーソー』を生み出したと言われています。
参考文献
How Castaway Survivor Alexander Selkirk Inspired the Tale of Robinson Crusoe
https://www.ancient-origins.net/history-famous-people/how-castaway-survivor-alexander-selkirk-inspired-tale-robinson-crusoe-002638
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部