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体罰は現在こそ先進国ではほとんど見られなくなりましたが、かつてのヨーロッパでは盛んにおこなわれていました。
例えば6世紀の聖ベネディクトゥスの定めた 『戒律 (Regula)』 (ベネディクトゥス修道会規則)には、
《児童の矯正の仕方について》
(1)修道士は皆,その年齢と理解力に応じた処遇を受けるべきである。 (2)そこで児童あるいは年少の者、あるいは破門の罰がどれほどに重いものかを理解できない者が過ちを犯した場合、(3) 彼らを矯正さ せるために厳しい断食に服せしめ、あるいは厳しい鞭の罰を加えなければならない。
という章があり、修道院の教育では子どもが悪事を働いた場合、鞭打ちや食事抜きといった罰を与えていたことがわかります。
また体罰が行われていたのは何も修道院の教育だけではなく、その他の子供の教育でも日常的に行われており、鞭を持った教師というのはごく一般的な存在でした。
このような体罰は中世が終わっても続いており、16世紀のイギリスの学校では日常的に鞭打ちが行われていたといいます。
また1712年に発行された法律書でも「親が彼の子どもを、主人が召使いを、学校教師が生徒を、看守が囚人を、夫が妻を、理性的方法で懲罰する場合、暴行罪にとわれない」と書かれており、当時の社会規範でも子供に体罰を行うことは暴力とは捉えれず容認されていたことがうかがえます。
なお王子や若い国王が悪さをした場合、教師といえども王族を折檻することは出来なかったため、代わりにウィピング・ボーイという学友が体罰を受けることになりました。
この制度の実在を裏付ける証拠は乏しいものの、高貴な生徒が他の生徒よりも罰を受けることが少なかったという主張もあり、それに近い制度はあったのではないかと言われています。
このような学校内の体罰について、親たちは激しく反発していました。
親たちの中には子供が教師から厳しい鞭打ちを受けたことに対して、激しい抗議をするものもいたのです。
しかし当時の親たちは、学校内での体罰は否定しつつも、最終的には体罰を許容していました。
具体的には子どもが嘘をついたときや、子どもに対するコントロールを失うと親が判断した時には体罰を行っています。
当時の親たちは学校のような場所でまじめに勉強をしなかったり、トラブルを起こしたりしたときに体罰を用いることに反対していたのであって、決して完全な体罰反対派ではなかったことが窺えます。
このことは当時から「進歩的である」と捉えられていた教育者も例外ではなく、『幼児教育論』にて体罰を「人間を奴隷化するものだ」と激しく非難したエラスムスでさえ、「他のどんな教育法も効果がなく、鞭打ちによる体罰という最後の手段を行使しなければならない場合でも、できるだけ寛大で控えめにしなければならない」と述べており、裏を返せば体罰を最後の手段として行使することは否定していません。
そのようなこともあって学校教育の場から体罰が無くなることはなく、その後も続いていきました。
しかし1860年にイギリスのイーストボーンで教師の体罰により15歳の少年が命を落とす事件が起こると、流れは変わります。
この事件では言うことを聞かず血気盛んな少年に対して教師が縄やステッキで叩いたり、拳で殴ったりを繰り返したことにより、少年は命を落としてしまいました。
少年に対する体罰は親の許可を貰っての事だったということもあり、教師は自身の潔白を主張したものの、裁判所は教師の主張を退けて懲役4年の判決を下しました。
この事件はヴィクトリア朝時代のマスコミにセンセーショナルに報じられ、学校での体罰についての議論を引き起こしたのです。
この事件の後一般市民は体罰を禁止するように抗議を進めていましたが、教育界は体罰禁止への動きを断固として拒絶しました。
イギリスにおいて体罰が禁止されるようになったのは、これから約1世紀後の1948年です。
教育界の動きは実社会と比べてかなりスローペースであるとはよく言われていますが、こういったところにも動きの遅さが窺えます。
参考文献
東京大学学術機関リポジトリ (u-tokyo.ac.jp)
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/31544
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。