薩摩藩は江戸時代を代表する雄藩として知られており、幕末には西郷隆盛をはじめとする傑物を多く輩出しました。

そんな薩摩藩ですが、郷中教育という他の藩とは異なった独自の教育方法が行われていたことはあまり知られていません。

果たして郷中教育とはどのようなものなのでしょうか?

本記事では郷中教育とは何かについて取り上げつつ、どうしてこのような教育が行われるようになったのかについて紹介していきます。

なおこの研究は、鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要1巻p. 125-145に詳細が書かれています。

目次

  • 郷中教育とは?
  • なぜ薩摩藩だけ変わった教育法になったのか?

郷中教育とは?

島津義弘、郷中の起源は彼が当主を務めていた安土桃山時代に遡るが、郷中教育が本格的に行われるのは江戸時代中期からだった / credit:wikipedia

郷中(ごじゅう)教育とは、武士の子供たちを対象に行われていた薩摩藩の教育方法です。

この郷中とは地域ごとに形成したグループ(郷中)のことを指します。

なお地域の大きさはおおむね4~5町(436m~545m)四方程度です。

当時の武士たちは家格に沿って住む場所が厳格に決められていたことから、郷中のメンバーは同じ程度の家格で構成されていました

教育方法は年長者が年少者を指導する「相互教育」の形式が取られており、リーダーシップや仲間意識を育むことが目的とされていました。

具体的には小稚児(こちご、6-10歳)や長稚児(おせちご、11-15歳)に二才(にせ、15-25歳)が教えていくというスタイルを取っており、特に決まった先生がいるわけではありませんでした。

この郷中教育では読み書きそろばんといった基礎的な学習内容から剣術や弓術といった武芸、さらには川遊びや山登りなどといった体力づくりがてらのアクティビティーが行われていました。

なおこれらの多くは先述したように、二才が稚児たちを指導していくというスタイルで行われていたものの、高度な学問や武芸などといった二才でも教えるのが難しいものは、長老(おせんし、妻帯した先輩)が教えることもありました。

また郷中教育では話し合いを非常に重視しており、郷中教育のメンバーたちは相手の立場を認めながら、問題を解決するために全員で一致して話し合いを進めていったのです

それによって問題改善のための最善策を作り上げていき、最後は全員が納得するような形で結論を出していきました。

なぜ薩摩藩だけ変わった教育法になったのか?

鹿児島城、薩摩藩の本拠地であり城の周辺には多くの郷中があった / credit:wikipedia

それではどうして薩摩藩ではこのような特殊な教育方法が生まれたのでしょうか?

それは薩摩藩において、兵農分離があまり進まなかったことが理由です。

というのも江戸時代の大名は安土桃山時代や江戸時代初期に初めてその土地を与えられて大名になったというパターンが多く、そうでない大名も豊臣政権期や関ヶ原の戦い後に転封(領地を他に移すこと)をしたものがほとんどでした。

※転封という言葉に馴染みのない人もいるかもしれませんが、これは大名が治める領地を命令により引っ越すことを指します。代表的なものは徳川家康で、秀吉の命令により三河(愛知県東部)から関東に所領を移しています。

それに対して薩摩藩は一貫して島津家が統治を続けており、転封によって武士と土地が切り離されることがなかったのです。

それにより兵農分離があまり進まず、諸藩では豪農などとして扱われることにより武士の身分から外れたような立場の人たちまで武士としてカウントされていました。これにより武士の数は他の藩と比べて圧倒的に多かったのです。

もちろんそういった理由で武士にカウントされている人たちは、藩士としての給料だけでは生活することが困難だったので、農業などを営んで何とか生活していました。

ちなみに他の藩では人口内の武士の割合はせいぜい5パーセント程度であったのに対し、薩摩藩は人口の25パーセントが武士だったのです。

それ故薩摩藩の武士はかなり農村内の風習を色濃く残すこととなり、当時農村で行われていた若者組(一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える習慣)の武士版として郷中教育が行われるようになったのです。

このように生まれた郷中教育ですが、幕末になると特色を大きく変えます。

欧米列強からの開国要求や商品的経済の発展による制度のひずみなどにより、日本中で新しい国の形について模索する動きが起こっており、それは薩摩藩の中でも起こりました。

そういった動きは郷中にも伝わっており、郷中教育は地域閉鎖的で自己完結的な武士の教育組織から地縁による武士の若者組組織という扱いになったのです。

時代のトレンドをいち早く取り入れることが出来たのは、指導者も柔軟な思考力を持っていた若者であったことが一因とされています。

それにより郷中教育で行われている学びは、武士として学ばなければならないことを身につけるための学びから、外の知識を積極的に見につけていく学びへと変わっていったのです。

幕末の薩摩藩では西郷隆盛や大久保利通をはじめとする傑物を多く輩出するようになり、彼らが原動力となって明治維新を成し遂げました。

このような郷中教育は、薩摩藩士の強い団結力や高い道徳観を育む基盤となり、幕末から明治維新にかけての薩摩藩のリーダーシップにも影響を与えたのです。

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参考文献

鹿児島大学リポジトリ (kagoshima-u.ac.jp)
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/records/1982

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 先生がいなかった!傑物を数多く生んだ薩摩藩の郷中教育とは?