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仇討ち(あだうち)は主君や直接の尊属(親や兄など)を殺害した者に対して、法に則って復讐を行うというものです。
江戸時代の殺人犯は通常、奉行所などといった司法機関にて裁きを受けることになっていました。
しかし江戸時代の捜査技術は現代と比べて未熟の上、幕藩体制もあって全国的な捜査を行う難易度も高く、犯人の正体がわかりながら身柄を拘束することができない事例が多々あったのです。
その為遺族が処罰を代行するという形で、仇討ちが行われていました。
似たようなことは日本だけでは無く、この時代なら世界中でよく見られますが、日本の特殊な点は単なる私刑ではなく法律上の制度として保障されていたことです。
そのため江戸時代に仇討ちを行う場合は、主君や奉行所から「仇討ちをする」という許可を貰ってから行う必要がありました。
しかし必ずしも許可を貰わなければ仇討ちをしてはいけないというわけではなく、無許可で仇討ちをしたとしても後の調査で正当性が認められれば事後承諾で許可されることもあったようです。
また仇討ちは表向き武士にしか認められていませんでしたが、百姓や町人が仇討ちをすることもしばしばあり、これらの仇討ちは黙認されていました。
そんな仇討ちですが、成功率は数パーセントとも言われており、非常に難易度が高かったとされます。
先述したように犯人の正体がわかっていたとしても、仇討ちをするためには犯人の居場所を突き止めなければなりません。
そのため仇の居場所がある程度わかっていた赤穂浪士のような例外を除けば、仇討ちの第一歩は犯人の捜索から始まったのです。
交通機関が発達し、監視カメラが町中に張り巡らされている現代ですら半世紀近く逃げ続けた指名手配犯がいることを考えれば、これらの文明の利器のない時代においてたった一人で犯人を突き止めることがいかに困難かわかるでしょう。
また仇討ちと似ているものとして、妻が不倫をした場合その妻と不倫相手を殺害する女敵討ち(めかたきうち)というものもありました。
女敵討ちは武士だけではなく庶民がすることも公に認められていたのです。
現代の感覚だと不倫で殺されるのはいささか罪が重すぎるかのように思えますが、当時は不倫が公的に証明された場合は双方ともに死罪が言い渡されていました。そのため女敵討ちだけがそこまで厳しいわけではありません。
また当時も示談による離婚や慰謝料の支払いで不倫を解決する場合もあり、不倫が発覚したら絶対に死ぬというわけではありませんでした。
一方武士の場合も離婚や慰謝料の支払いという形で穏便に済ませるケースもありましたが、ひとたび武士社会の間で妻の不倫が発覚した場合は、社会的に強制される形で女敵討ちを強いられることになっていたのです。
これによって武士は「妻を寝取られた男」という汚名をそそぎ、家の名誉を回復させなければなりませんでした。
無礼討ちは武士が耐え難いほどの無礼を働いた相手を殺すというものです。
無礼討ちが制度として認められていたのは、武士の権威が儀礼の場だけではなく日常の場でも目に見える形で表現されるべきという考えがあったからといえます。
無礼として扱われていたのは、武士の体や身に着けている刀にぶつかり、それを咎められても謝罪せずに罵詈雑言を浴びせたり刀で斬りかかったりした場合などです。
他にも武士に対して耐え難い屈辱を与えた場合は無礼討ちが行われていましたが、命の危機を感じるような危害を受けた場合を除いて、武士は無礼討ちをする前に相手に謝罪をする機会を与えていました。
この無礼討ちは時代劇などでは多く見られるのとは対照的に、実際の江戸の世ではあまり見られませんでした。
と言うのも武士が無礼討ちを行った場合、奉行所や藩に届け出を出さなければならなかったからです。
届け出を受けた奉行所や藩は「この武士は本当に耐えがたいほどの無礼を受けたのか」について調査をし、調査の結果耐えがたい無礼を受けていたことが分かった場合のみ、晴れて無礼討ちとして認められたのです。
もし奉行所や藩が調査の末、「その程度のことで刀を抜くとは武士としていかがなものか」と判断した場合、辻斬りとして扱われて死罪が言い渡されました。
無論そこで嘘をついたり届け出をしなかったりした場合も、問答無用で死罪が言い渡されていました。
また無礼討ちをするために一度刀を抜いた場合は、絶対に相手を殺すことが求められていました。
江戸時代は武士の世の中と言われていたこともあり、一般的には武士が自由に闊歩していたイメージがあるものの、実際は制度によって厳しく縛られていました。
フィクション作品では、横柄な武士が無法者のように振る舞う様子が描かれることもありますが、実際武士は自由気ままに強権を振るう存在ではなく、無礼討ちにもかなりのリスクや、ためらいがあったと考えられます。
例えばこんな話があります。
尾張藩(現在の愛知県西部に所在)に仕えていたある侍は、傘を差して歩いている時に町人とぶつかりました。
侍は町人に謝罪するように求めましたが町人は無視をしたため、無礼討ちをしようとしたのです。
しかし侍は「丸腰の人間を殺すのは武士としていかがなものか」と考え、自分が持っている脇差を町人に渡して決闘という形にしようとしましたが、町人は脇差を持ったまま逃げ出して、「私は侍を打ち負かしたぞ!」と周りに言いふらしたのです。
それを受けて侍は雪辱を果たすために町人の家を突き止めて、町人の家族全員を殺しました。
このようなこともあって無礼討ちは庶民に対して、武士が生殺与奪の権を持っていることを示威するためのものではなく、武士の名誉の回復と攻撃から自分を守るための正当防衛という性質が強かったようです。
武士は自身の名誉を守るために仇討ちや無礼討ちをすることを強いられており、武士にとって復讐は権利ではなく義務であったことが伺えます。
参考文献
早稲田大学リポジトリ (nii.ac.jp)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/6282
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。