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フグは言わずと知れた高級食材として知られており、ふぐ刺しやてっちりなどといった方法で知られています。
しかし先述したように猛毒を持っている生き物としても有名であり、体内にテトロドトキシンという猛毒を含んでいます。
このフグ毒は一般的には内臓に含まれているのですが、フグの種類によって毒化する場所は異なっており、さらに同じ種類のフグであっても季節によって毒の量は大きく変わります。
そのようなこともあってフグから毒を取り除くのには非常に高度なスキルが要求され、現在飲食店でフグを調理するためには、フグ調理師という専門資格が必要です。
そんなフグですが、昔から日本で食べられており、縄文時代の遺跡である姥山貝塚(現在の千葉県市川市)では住居の跡地からフグの骨が出土したりしています。
しかしその時代にフグの正しい料理法が理解されているはずもなく、フグの骨と一緒に住民が同時に急死したような遺骨も発見されており、まさに命がけでフグを食べていたことが窺えます。
その後古墳時代に入ると、中国から日本に仏教とともに多くの書物がやってきました。
そうした書物の中にはフグを食べる危険性について書かれているものも多く、たとえば山海書(中国の地理について書かれた本)には「肺魚(揚子江産のフグ)を食えば人を殺す」、論衡(中国の思想書)には「鮭(黄河産のフグ)肝人を死なしむ」と書かれています。
しかし中国からの最新の書物によってフグが危険であることが伝わったのにもかかわらず、この後も日本ではフグが食べられました。
その理由としては日本では魚を肉の部分だけを食べる習慣があり、毒が多く含まれている内臓は食されなかったことが挙げられます。
もちろん調理の際に内臓を傷つけて毒が漏れ出したことにより、フグを食べて命を落としてしまった例がないわけではありませんが、確実に死ぬというわけではないことからフグは食べられ続けました。
その後安土桃山時代に入って豊臣秀吉が朝鮮征伐を行うと、下関(現在の山口県下関市)に諸国の軍勢が集中しました。
その中にはフグがあまり食べられていなかった地域の人も多く、それゆえ諸国の軍勢の中にはフグの毒を知らずに内臓を食べて命を落とすものも少なくなかったのです。
こうしたフグ毒での犠牲者は豊臣軍も頭を抱えており、遂には町中にフグの絵と「この魚を食べてはいけない」という文字がかかれた看板を立てるに至りました。
この風潮は江戸時代に入っても変わらず、例えば長州藩(現在の山口県)では「フグを食べて当主が死んだ家は永久に断絶」という厳しい掟が定められたりしています。
なお長州藩は先述した下関があることからフグが特産品として扱われていましたが、それでもこのような掟があったのです。
しかし武士の間ではこうした厳しい掟があったものの、庶民の間では普通にフグは食べられており、当時の川柳や俳句にもフグにまつわるものは多くあったのです。
それでもフグを食べることに何のリスクもなかったわけではなく、たとえば曲亭馬琴(きょくていばきん)の羅旅漫録(きりよまんろく、馬琴の京都・大坂旅行記) に「千日寺の前の往来にフグを食べて死んだ4人の墓あり、墓石の下にフグの形を彫刻し…」と書かれたりするなどしており、フグ毒に当たって死ぬ人が出るのはよくあることであると捉えられていたことが窺えます。
その後明治時代に入ると、政府が1882年にフグ食の禁止令を出し、フグを食べることができなくなりました。
しかしそうした国の動きに対しては反発も大きく、1898年に山口県に限りフグ食を解禁したのを皮切りに、全国で復活していったのです。
古代より食べたら死ぬかもしれないリスクを抱えているのにもかかわらず、多くの人が危険を承知の上でフグを食べ続けたあたり、フグの美味さが窺えます。
参考文献
ふぐについて (jst.go.jp)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/9/6/9_6_214/_article/-char/ja/
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。