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イギリスのケンブリッジ大学(Cambridge)による膨大なデータの分析により、イギリスの工業化とそれに伴う労働者人口の推移が従来考えられていたよりも100年以上早い、1600年代から始まっていたことが示されました。
歴史の教科書ではイギリスの産業革命は1700年代後半にはじまったと述べられていますが、研究者たちは「それは歪んだ産業革命のイメージによるものだ」と述べています。
研究内容の詳細はケンブリッジ大学のサイトに記載されている研究プロジェクト『the Occupational Structure of Britain 1379-1911』にて公開されています。
目次
タイムトラベル要素のあるSFではしばしば「過去にタイムスリップした主人公が現代の知識を使って過去世界で産業革命を起こす」という設定を持つものみられます。
このような空想は、私たちの頭には「産業革命=蒸気機関」という認識が植え付けられているからだと言えるでしょう。
実際、多くの歴史家も産業革命の開始を蒸気機関の発明と関連付けて語っています。
しかし新たな研究では産業革命と蒸気機関をイコールで結びつけることは、産業革命という人類社会に起きた巨大な変革のイメージを歪めたものにしてしまうと警鐘を鳴らしています。
蒸気機関が発明され社会全体に普及するには、蒸気機関を受け入れるだけの下地がなければならないからです。
たとえば狩猟採取を生業としていた旧石器時代に、エイリアンによって蒸気機関がもたらされ(さらに作成や運用に必要な技術が全て伝えられた)としても、決して産業革命は起きなかったでしょう。
「産業革命」を起こすには「農村部から都市部への労働者の移動」や「機械を集約した工場群の建設」「工場労働者層の出現」といった社会全体の変化が、広域で展開されなければならないからです。
狩猟採取が主で農業が始まっておらず、定住すらしていなかった人類にとって、それら産業革命に必要な社会変革を進める力はありません。
同様に中世に蒸気機関が発明されても産業革命は起こらなかったはずです。
産業革命が起きて都市部に大量の労働者が流入し、社会で労働者の重要度が高くなれば、必然的に市民の権利意識が高まり、王権にとって脅威になるからです。
産業革命が国力増強に役立つことが明らかになった時代でも、多くの君主が工場建設を禁止していたことからもわかります。
そうでなくとも、農業生産力が不安定な時代に農村から都市への人口流出などが起これば飢饉が連発し、産業革命どころではなくなってしまいます。
人類が文明を築いてから膨大な時間が過ぎ無数の国家が建てられたのに、イギリスだけが産業革命の創始者になれたのは、イギリスだけが産業革命の下地を自力で整えることに成功したからだと言えます。
あえて産業革命をキャンプファイアーに例えるならば、蒸気機関の発明は点火用のマッチと言えるでしょう。
マッチが1本あれば火がつきますが「キャンプファイヤー」はできません。
ギャンプファイヤーを起こすには準備段階として枯れた木を集め、種火を拡大させる着火剤を用意し、それを適切な配置で組み立てておかねばならないからです。
極論するならば「産業革命=蒸気機関」とすることは「キャンプファイヤー=マッチ」とするのに等しい、極めて歪んだイメージだと言えるでしょう。
しかし多くの人々は、その歪みに気付きません。
特に日本のような産業革命の後進国では、政府によって大量に買い付けられた外国製の蒸気機関が工場を作り、殖産興業が開始されたという経緯があり蒸気機関=産業革命のイメージが鮮明にみえがちです。
しかし産業革命の下地と蒸気機関の両方を自力で整えたイギリスは違っていたようです。
ケンブリッジ大学で行われた研究では、なぜイギリスだけが産業革命を開始できたのかを改めて調べることになりました。
産業革命のお膳立てはどのように進んでいたのか?
謎を解明するために研究者たちは3世紀にわたる1億6000万件以上の記録を収集。
そのなかには200万件を超える個人の遺言書など民間レベルの財産移転の情報も含まれていました。
すると驚くべき事実が判明します。
私たちの多くが抱く産業革命のイメージでは「まず労働集約(手工業)が盛んだった場所に機械が搬入されて近代的な工場ができ、労働者が集まってきて、逆に農村部の人口割合が減っていく」というものです。
しかしイギリスの人口動態を詳しく調べたところ、既に1600年代から男性労働者の割合が増加し始めており1600年から1700年にかけて50%も増加していたことが判明。
その総数は働く男性の半数弱(28%から42%)に達していました。
一方で1600年から1740年のわずか40年の間に、男性農業従事者の割合は3分の1以上(64%から42%)減少していました。
この数値は際立っており、1700年のフランスと比較しても、イギリスの労働者人口の割合は3倍になっています。
この結果は、イギリスでは機械がない時代でも、農業から工業への人口移転が急ピッチで進んで「機械のない工業化」が起きていたことを示しています。
たとえば南部のグロスターシャー州の場合、繊維・履物・金属の工業化が急拡大し、男性労働者の人口割合が1600年代の間に33%から44%へ増加したことがデータからわかります。
また北部のランカシャーでは繊維工業が盛んになり1660年から1750年にかけて男性労働者人口の割合が42%から61%へと増加しました。
繰り返しになりますが、これらの変化は全て蒸気機関が発明される前に起きていたことです。
「機械がたくさん詰まった工場ができて労働者が集まる」というイメージは、産業革命が起きた後の世界では正しいでしょう。
しかし実際には機械のあるなしにかかわらず、労働者割合の増加と農業者割合の現象が起きていたのです。
そして急速な工業化の進展は後に起こる蒸気機関の発明という「点火」を有効活用させる下準備となっていきます。
問題は、なぜイギリスだけでこのような急ピッチの工業化が達成できたかです。
歴史好きの人ならば、なぜイギリスだけで産業革命の震源地になれたか疑問に思うことでしょう。
民主主義の語源ともなった古代ギリシャの都市国家たち、広大な領土と高度な技術を持っていた古代ローマ、何度も繰り返し打ち立てられた中国の歴代の王朝、古代ローマの技術を継承した中東のイスラム文明。
これらの国々は高度な民主主義体制や広大な領土、王や皇帝が持つ権力の大きさ、高度な富の集中など、産業革命が起きても良さそうな盛況さ兼ね備えています。
しかし現実には、イギリスだけしか自力で産業革命を始めることができませんでした。
何故なのか?
その理由として研究者たちは、イギリスの制度に着目しています。
当時、イギリスの経済は向かいの大陸とは異なり、関税や規制が少なく、人々はより自由に経済活動を行うことができました。
一方、同じ時期のオランダ都市ライデン周辺では人々は繊維生産をすること自体を禁止されていました。
またスウェーデンでは1800年代になるまで町から10マイル(16km)以内では、商店を出すこと自体が許されていませんでした。
このような現代からみて不合理に思える規制は当時の世界ではごくありふれており、その目的は貴族など支配者層に富みを集中させることにありました。
自由な経済活動は人々に豊かになれる可能性を提示することでインセンティブを引き出し、時代を先取りするような奇抜なアイディアにも出資を促します。
労働者を集めて生産を効率化させようとする機械のない時代の工業化アイディアさえも、商品の生産や店舗の出店すら許されていなければ、生かしようがありません。
しかしイギリスではこの手の規制が緩やかであったため、1700年の段階で製造業の全雇用の半分は地方の田舎から供給されていました。
そこでは羊毛など原料を販売する商人が独自に加工を担う労働者を働かせるなど、現在で言う垂直統合(供給チェーンの統合)も部分的に進んでいました。
この経済学的なアドバンテージは規制にがんじがらめにされていた当時にあってはある種のチートとも言えます。
ですがこの経済学的な進歩も、王や皇帝の力が強すぎれば、重い関税や独占権を駆使して、供給チェーンどころか工業化が起こる芽も潰していたでしょう。
さらに産業革命や工業化は社会変革とセットであるため、現状維持を強く望む支配者は税に関係なく規制を強めて積極的に潰すこともありました。
工業化が遅れて他国より国力が劣る事態になっても、自らの支配の安定のほうが重要だからです。
ある意味で、支配者にとって産業革命などの技術革新は敵なのです。
現代においても北朝鮮などをみると、技術発展や経済よりも支配安定を優先している様子がよくわかります。
このようなイギリスにおける社会システムの先進性からも、蒸気機関=産業革命というイメージがいかに歪んでいるかがわかるでしょう。
新たな研究では、イギリスの工業化が一本道でないことも発見されました。
普通なら、産業革命の下地がクリアーされている状況で、蒸気機関のテクノロジーが解禁されれば、あとは産業化まっしぐらだと思えます。
確かに、後のイギリスの発展をみれば、全体としてはその通りと言えるでしょう。
しかし地域ごとにみると、労働者と農業従事者の人口割合の逆転が起きていたことがわかりました。
上の図は労働者人口の割合の変化を示したものとなり、イギリスの工業化の初期段階では、東部や南部で労働者が多くなっていたことがわかります。
しかし時代が進むにつれて、東部や南部では労働者割合が減少し、代わりに北部で増加していることがわかります。
ここでようやく登場するのが、蒸気機関です。
蒸気機関は1700年代初頭に初めて発明され、当時は大気圧機関と呼ばれており、鉱山の廃水ポンプなど限られた用途にのみ使われていました。
SFの一種であるスチームパンクの世界では、よく見かける建造物です。
その後、蒸気機関の進化は続き1769年にワットによる改良を経て、1780年代に実用化が進みました。
そうなると石炭の需要が増すため、最終的には石炭が豊富なイングランド北部で工場をもつことが有利になってきます。
そのため上の図でも時間が経過していくと、北部の労働者割合が急速に上昇していくことがわかります。
一方で先に工業化を成し遂げたはずの東部と南部では、労働者割合が減少し、農業従事者が増えると言う逆転現象が起こりました。
たとえば東部のノーフォークは1600年代では最も工業化が進んだ地域であり1700年には成人男性の63%が工場労働者として働いていました。
しかしそこが最盛期であり、1700年代が過ぎていくと労働者の割合は39%に減少し、一方で農業従事者は28%から51%に増加しました。
研究者たちはこの現象を「産業の空洞化」と呼んでいます。
また蒸気機関の発明により効率が上がると人手もあまりいらなくなり、産業時代の最盛期と考えられている機関を通じて、ほとんど労働者の割合は増えませんでした。
多くの人は「産業革命を迎えると国中が工場労働者だらけになる」というイメージを持ちますが、イギリスの産業革命によって実際に起きたのは、労働者割合の増加ではなく、仕事の性質と仕事の場所の変化だったのです。
またこの変化の影響が最も大きかった労働者は、女性と子供でした。
成人女性の労働参加率は1760年には60%~80%でしたが1851年には43%に低下しました。
この低下した女性の労働参加率が1760年代の水準に戻るのは1980年代になってからです。
一方で子供たちにとっての変化は好ましいものでした。
ブラッドフォードでは主に繊維工場などで膨大な数の13~14歳の女の子が働かせており、1851年の時点では11~12歳の女の子の40%が工場で働いていました。
しかし1911年になるとこの比率は10%まで低下し、義務教育制度がはじまりました。
研究者たちは今回の研究成果から「工業化の2つの段階の区別をするためにも教科書を書き直す必要がある」と述べています。
参考文献
The Cambridge Group for the History of Population and Social Structure
https://www.campop.geog.cam.ac.uk/research/occupations/
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部