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ボイコットの由来となった事件は、この土地戦争の中で起こった出来事の一つだったのです。
チャールズ・ボイコット(1832〜1897)は、イギリス陸軍の大尉として従軍していましたが、退役後の1873年にアイルランド北東部・メイヨー県にあるラフマスク地区へとやって来ました。
彼はそこでイギリス人の地主であるエルン卿の土地代理人として、代わりにその地区の土地管理を始めます。
しかしボイコットは他のイギリス人地主に輪をかけて、農民への横暴を行いました。
法外な家賃や容赦のない立ち退きはもちろんのこと、非常に細かく手前勝手なルールを設けて、それに違反した農民には罰金を課したのです。
例えば、門を開けっぱなしにしていただけで罰金とか、彼の敷地に鶏が入っただけで罰金といったものです。
加えて、1879年頃からアイルランドでは農作物の不作による飢饉が発生し、農民たちは賃料を払えない苦境に立たされていました。
これを受けて農民たちは家賃の削減を求めましたが、ボイコットはこれを直ちに拒否。
法外な家賃の強要をやめることなく、賃料を払えない農民には立ち退きを強制しつづけたのです。
ついに堪忍袋の尾が切れたアイルランド農民たちは1880年に、ボイコットの不当な要求に抵抗するための大胆な戦略を練りました。
アイルランド土地連盟の著名なメンバーを中心に、非暴力にもとづく組織的な抵抗運動を開始したのです。
彼らはこの抵抗運動の目的として、3つのF:「公正な賃料(Free sale)」「所有権の固定(Fixity of tenure)」「自由な売却(Fair rent)」を掲げました。
それらを実現する具体的な運動として、ボイコットの所有する土地での労働、ボイコットの利益となる取引への従事を完全に拒否したのです。
こうした抵抗運動のアイデアは、アイルランドの政治指導者であったチャールズ・スチュワート・パーネル(1846〜1891)の発案にもとづきます。
彼は労働や取引からの撤退のみならず、ボイコットを地域社会から孤立させることを目的としました。
1880年9月19日には、アイルランド農民たちの前で次のような演説を行っています。
(ボイコットを「撃ち殺せ!」という群衆の呼び声に対し… )
「私は、あなた方にもっと良い方法、つまり、迷える者に悔い改める機会を与える、よりキリスト教的で慈悲深い方法を提案したいのです。
その者が農民を立ち退かせて土地を奪ったなら、あなた方は道端でも、町の通りでも、店でも、市場でも、礼拝所でも、徹底的に彼を避け、一人にし、昔のハンセン病患者であるかのように孤立させ、彼の犯した罪に対する嫌悪の念を示すのです」
農民たちはパーネルの示した非暴力運動を徹底し、ついにボイコットは土地に留まることができなくなりました。
彼は1880年12月1日にアイルランドを離れます。
1886年にはイングランド東部のサフォーク州で再び土地代理人となりましたが、そのすぐ後に病に倒れ、1897年6月19日に自宅で亡くなりました。
享年65歳でした。
このアイルランド農民たちの非暴力運動はメイヨー県を越えて、広い地域で反響を呼び、革新的な抗議方法としてメディアの注目を集めます。
その流れの中で、ジャーナリストやコメンテーターが、社会的・経済的な不服従・排斥運動を称して「ボイコット(Boycott)」と呼び習わすようになったのです。
「ボイコット」は今や世界各地で使われる用語となりましたが、その背景にはこうしたアイルランド農民の抵抗運動があったのです。
参考文献
Captain Boycott’s Abuse of Irish Farmers Sparked the Term “Boycott”
https://www.ancient-origins.net/weird-facts/boycott-term-0020442
The English land agent who inspired the “boycott”in 19th-century Ireland
https://www.irishcentral.com/roots/history/irish-invented-boycott
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。