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ヒトだけでなく、あらゆる陸上哺乳類は目に涙腺を持っています。
哺乳類が涙を流す理由についてはダーウィン以来、長い議論が続いており、生物学者らは「目をゴミや細菌から守るため」とか「自らの弱さや無力さを示して攻撃対象から外れるため」といった説を提示してきました。
例えば、マウスにおける涙の社会的相互作用についてはかなり詳しいことが分かっており、メスのマウスの涙液には攻撃性に関わる脳活動を抑える化学物質が見つかっており、それによってオスのマウス間の争いが減少するのです。
その一方で、ヒトにおける涙の社会的相互作用はよく分かっていませんでした。
そこで研究チームは、ヒトの男女でもマウスと同じような効果が見られるかどうかを検証しました。
チームは今回、実験内容に同意してくれた6名の一般女性(22〜25歳)に悲しい映画を観てもらい、その際に流れ落ちた涙を集めました。
次に心身ともに健康な31名の男性(平均26歳)を対象に、女性の涙か生理食塩水のいずれかの匂いを嗅いでもらいます。
涙と生理食塩水はガラス瓶の中に入れられ、それぞれ1回につき35秒間嗅いでもらい、これを複数回繰り返しました。
匂い自体は2種ともに無臭で、被験者の男性は自分がどちらを嗅いだのかは分かりません。
続いて、被験者は女性の涙か生理食塩水のいずれかを染み込ませたパッドを鼻の下に付けた状態で、攻撃性を誘発するよう設計されたコンピューターゲームに取り組みました。
このゲームは心理学実験で用いられるポイント減算攻撃パラダイム(PSAP)と呼ばれるものの一種で、参加者はできるだけ多くのお金を稼ぎ、終了後には実際に獲得した分のお金を報酬として受け取れます。
PSAPは実験ごとに異なるバージョンが作られますが、今回のゲームは2つのボタンを5秒間押し続けることでお金を獲得し、突発的に「挑発イベント」と「報復イベント」という2つのイベントが発生するという形式になっています。
挑発イベントでは参加者のお金が対戦相手から不当に減らされます。そして報復イベントでは、自分の利益には出来ないが対戦相手の所持金を仕返しに減らす(差し引く)ことができますが、復讐せずに無視してお金稼ぎに集中することも出来ます。
実験では被験者に「このゲームは目には見えない実在のプレイヤー(実際は架空の人物)との対戦形式だ」と告げられますが、実際には人間の対戦相手はおらずコンピュータが相手です。
そしてランダムな抽選で、一方が先に対戦相手のお金を「奪う」立場になり、もう一方はその後に相手の持ち金を「差し引いて」復讐できる立場に割り当てられます。
ただ、この抽選も実際はランダムなものではなく、被験者が必ず後者の立場になるよう設定されています。
そして被験者の攻撃性は、自分のお金を減らされたことに対する相手の持ち金の「差し引き(=報復)」を実行した回数によって評価されました。
その結果、ゲーム前とゲーム中に女性の涙を嗅いでいた男性は、生理食塩水を嗅いでいた男性に比べて、報復の回数が実に43.7%も低くなっていたのです。
この効果の大きさには研究者たちも驚きを隠せませんでした。
これを受けてチームは、脳で起こっていることも調べたいと考え、別の実験を実施。
33人の男性(平均27歳)を対象に脳活動を測定する磁気共鳴機能画像法(fMRI)を付けた状態で、先とまったく同じ実験をしました。
すると女性の涙を嗅いだ男性の脳では、攻撃性に関連する脳領域の活動が低下し、さらに匂いの処理に関する領域と攻撃性に関する領域との神経ネットワークの接続性が高まっていることが確認できたのです。
この結果は明らかに、女性の涙に含まれる何らかの化学物質の匂いが、攻撃性に関わる脳活動を抑制していることを示しています。
しかし奇妙なのは、ヒトにおいては涙に含まれる化学物質の匂いを検出する嗅覚システムが知られていないことでした。
このシステムはマウスでは見つかっているものの、ヒトに涙の匂いを検知する能力があるかどうかは不明です。
そこでチームは最後に、ヒトに涙の匂い成分を検知する能力があるかどうかを検証しました。
チームは過去に見つかっている62種類のヒト嗅覚受容体(匂いを検出するタンパク質)に、女性の涙と生理食塩水をさらしてみました。
その結果、4種類のヒト嗅覚受容体が涙に含まれる化学物質に特異的に反応して、活性化することが新発見されたのです。
これらは生理食塩水に対しては無反応でした。
このことは女性の涙に攻撃性を鎮める化学物質が含まれていること、およびヒトの嗅覚の側にもその匂いを受け取る神経システムがあることを証明する革新的な成果です。
涙そのものにはっきりとした匂いはないものの、私たちは無意識的に涙の匂いを感じとっているようです。
以上の結果から、女性の涙には男性の攻撃性を鎮める作用があると結論されました。
一方でチームは本研究について、女性の涙による男性への作用のみを調べた点で限界があり、今後は性別に関係なく涙が相手の攻撃性を緩和させる機能があるかどうかを調べていきたいと話しています。
それに加えて、攻撃性を低下させる因子となった涙の中の化学物質も特定していく予定です。
その有効成分が明らかにされ、人工的に製造できるようになれば、”乙女の涙”みたいな怒り鎮静スプレーが開発できるかもしれません。
参考文献
Exposure to tears activates human smell receptors and alters aggression-related circuits in the brain
https://wis-wander.weizmann.ac.il/life-sciences/tears-without-fears-sniffing-women%E2%80%99s-tears-reduces-aggression-men
Human tears contain substance that eases aggression, says study
https://www.theguardian.com/science/2023/dec/21/human-tears-ease-aggression-study-brain
Sniffing women’s tears reduces aggression in men and alters brain activity, groundbreaking study finds
https://www.psypost.org/2023/12/sniffing-womens-tears-reduces-aggression-in-men-and-alters-brain-activity-groundbreaking-study-finds-215029
元論文
A chemical signal in human female tears lowers aggression in males
https://journals.plos.org/plosbiology/article?id=10.1371/journal.pbio.3002442
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。