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海岸に立つと感じる磯の香りは、私たちにとってなじみ深いものです。
しかし、その香りがどこから来るのかご存知でしょうか?
私たちが海岸で感じる磯の香りは、実は微小な海洋プランクトンが生み出す硫黄含有化合物、ジメチルスルホニオプロピオネート(DMSP)がバクテリアなどによって分解されDMS(硫化ジメチル)となることで発生します。
DMSは分子構造の内部に硫黄を含んでいるため、私たちの嗅覚を刺激し、独特の生臭さ(潮の香り)を感じさせるのです。
海に住むプランクトンたちが磯の香りの元となるDMSPを生産する理由は、海水の塩分濃度に対抗するためです。
海は生命の源と言われていますが、生命の単位となる細胞にとって海の塩分濃度は高すぎます。
というのも、水分子には均等に分布しようとする性質(浸透圧)があるため、塩分などの濃度が異なる溶液が半透膜(一定サイズ以下の分子を通過させる膜)を隔てて接している場合、濃度の低い方から高い方へと移動していきます。
そのため、何もしなければプランクトン内部の水分は海に向けてどんどん流れていってしまい、生命機能を保つことができません。
そこで海に住むプランクトンたちは細胞内部に無害な化合物「DMSP」を蓄積して、外部の溶液(海水)との濃度を保つことで、水分喪失を防いでいるのです。
つまり、DMSPはプランクトンが塩分濃度の高い海水の中で生きるための「バランサー」として機能するのです。
そしてプランクトンが海岸線で干からびて死ぬなど何らかの原因で破裂すると、内部のDMSPが環境中に放出され、バクテリアなどによって分解され、磯の香りの主因であるDMSに変化します。
そのためこれまでの見解では、湖など淡水域に生息する淡水プランクトンはDMSPを生産する可能性は低いと考えられていました。
淡水にはプランクトン内部の水分を吸い取ってしまうほどの塩分濃度がないため、DMSPを生産して対抗する必要がないからです。
しかし近年の研究により、海洋プランクトンの生産するDMSPが、低温によっても増加することが明らかになってきました。
たとえば暖かい地域の海水と寒い極地の海水を採取してDMSPの濃度を比較すると、極地の海水のほうが圧倒的にDMSPの濃度が高くなっていたのです。
この結果は、DMSPが単に塩分濃度に対抗するバランサー以外の「第二の目的」のために生産されていることを示しています。
以前に行われた研究では、この「第二の目的」が凍結防止である可能性が示唆されています。
寒い地方ではしばしば、路面の凍結を防ぐために、塩化ナトリウム(塩)や塩化カルシウムなどの化合物が凍結防止剤としてまかれます。
水に塩などの化合物が混ざると、水が液体から固体(氷)に変化するのを邪魔する効果を発揮するため、凍りにくくなるからです。
極地の寒い海に住む海洋プランクトンたちも同じように、細胞内部にDMSPという化合物を溜め込むことで、細胞内部の水が凍ってしまわないようにしていると考えられます。
海水の塩分に対抗するための能力が、低温環境に適応するためにも役立っているわけです。
そうなると、疑問が浮かびます。
凍ってしまうほどの冷たい水域は北極や南極に近い海だけでなく、陸上の湖などの淡水域にも存在します。
そこで今回、熊本大学の研究者たちは「淡水に住むプランクトンたちも、磯の香りの元となるDMSPを生産しているのではないか?」と考え、検証することにしました。
淡水プランクトンも磯の香りの元となるDMSPを生産しているのか?
謎を解明するため研究者たちは、極寒の地、ロシアのバイカル湖で「10年間」にわたり断続的な調査を行いました。
バイカル湖はモンゴルの北側に位置するアジア地域で最大の淡水湖として知られており、1年のほぼ半分(1月から5月)で凍結がみられる冷たい湖として知られています。
結果、植物プランクトンの一種である渦鞭毛藻「Gymnodinium baicalense」が、下の図のように、氷の内部に生じた僅かな液体で満たされたポケットなどで繁殖していることが判明しました。
このような小さなポケットは太陽放射によって藻類たちの成長が促進され、藻類たちの緑色の体によって吸収した熱によって氷の融解が促進され、それによってポケット内部の水量が維持されています。
(※もしこのポケットに殺菌剤を注入して内部のプランクトンたちを殺してしまうと、ポケットは融解状態を維持できなくなり凍り付いてしまうでしょう)
植物プランクトンたちは、このよな凍結ギリギリの過酷な環境の中でも太陽光を使って光合成を行い、生存していたのです。
そこで研究者たちはこの渦鞭毛藻には、凍結を防止するためにDMSPを作っている可能性があると考え、現地にDMSPの分析装置を搬入してリアルタイムの水質調査を行いました。
するとバイカル湖の渦鞭毛藻も、DMSPを生産していることが判明します。
さらにDMSPの濃度変化を追跡したところ、渦鞭毛藻たちは寒い日になるとDMSPを生産し、暖かくなって不要になると水中へ捨てていることが観測されました。
この結果は、従来海洋プランクトンの専売特許だと考えられていたDMSPを、淡水プランクトンたちも凍結防止のために生産していることを示しています。
また詳細な分析により、DMSPは寒い日だけでなく、ポケット内部の植物プランクトンの「人口密度」が過剰になり、生存環境が悪化した時にも放出されていることが判明しました。
つまり渦鞭毛藻はDMSPを凍結防止だけでなく、酸化ストレスなどの環境悪化に対抗する手段としても使用していたのです。
淡水、海水関係なく渦鞭毛藻がDMSPを生産するということは、この能力が渦鞭毛藻の先祖が共通して持つ特徴であったと考えられています。
そのためバイカル湖の渦鞭毛藻のDMSP生産能力にかかわる遺伝子は、バイカル湖で新たに獲得されたものではなく、共通の先祖から引き継がれたものと言えるでしょう。
また近年では、DMSPが分解されてできるDMS(磯の香り)は環境全体においても重要な役割を担っていることが明らかになってきました。
DMSは水に溶解せず空気中に拡散するため、海洋大気において雲の核となって雨をもたらします。
またDMSには「負の温暖化効果」があるとされ、温暖化効果を打ち消す性質があることが知られています。
さらにDMSPやDMSは海獣や海鳥がエサを探す際に重要な信号となっており、ウミガメが誤ってビニール袋を食べてしまうのも、表面に付着したDMS臭が原因だと考えられています。
DMSPやDMSの研究は地球環境に重大な影響を与えており、それゆえに淡水プランクトンがDMSPを生産するという新たな事実は、重要な意味を持つのです。
研究者たちは今後、調査の方向を遺伝学的な分析に移行させることで、淡水プランクトンたちのDMSPを生産する遺伝子を同定できると述べています。
そうなればバイカル湖だけでなく、日本の寒い地域に生息する淡水プランクトンたちもDMSPを生産する遺伝子を持っているかを知ることができるでしょう。
(※なお余談ですが、淡水域でも磯の香りに似た生臭い臭いを嗅いだことがある人もいるでしょう。海岸線で感じる磯の香りは主にDMSPが分解されて生成される硫化メチル(DMS)が原因ですが、淡水域では腐敗プロセスや藻類の大量発生(藻類ブルーム)によっても窒素化合物や硫黄化合物など生臭さの原因となる分子を放出することが知られています。そのため一般的な淡水域で感じる磯の香りは、単一の化合物に起因するものではなく、さまざまな要因が重なり合いで起きていると言えるでしょう。たとえば1858年に起きたロンドン大悪臭(ザ・グレート・スティンク)では、「人間の」生活排水や糞尿などが直接的な原因と考えられています。)
参考文献
淡水のプランクトンも凍結防止のため 海の磯の香りの元になる双性イオンをつくり出す
https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/sizen/20231201
元論文
Abundant production of dimethylsulfoniopropionate as a cryoprotectant by freshwater phytoplanktonic dinoflagellates in ice-covered Lake Baikal
https://www.nature.com/articles/s42003-023-05573-9
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。